2010年5月13日木曜日

抵抗の象徴の島

 徳之島に普天間基地機能の一部を移転させるだのさせないだのが取り上げられて久しい。この島に何をしようというのだ?


 徳之島は奄美群島の一部。ぼくは大島の出身で徳之島には2度ほどしか行ったことがない。でも、闘牛(牛同志の押し相撲)が盛んだということ以外に、少なくとも以下のことを、誰もが知っているように、知っている。

 奄美群島の一部だから、そこはかつて琉球に支配され、1609年の琉球征伐以後は薩摩の島津家に支配されていた。薩摩の支配下で、幕末、砂糖(きび)の取り立てが厳しくなった時期、この圧政に異議を申し立てる一揆があった。犬田布(いんたぶ)騒動という。

 犬田布騒動の碑は、今も(たぶん)、現場となった犬田布岬近くにあるが、それはそれはひっそりとしたものだ(たぶん、今でも)。犬田布岬は、その沖合で、太平洋戦争中、戦艦大和が撃沈した地点としても知られ、岬にはそれを慰霊する碑が建っている。合掌の形をした、メタル製のそれはそれは立派なものだ。

 さて、犬田布騒動を基に劇が作られたことがある。太平洋戦争後、GHQ……北部南西諸島軍政部の支配下にあったころのことだ。作者は伊集田實。当然のことながら徳之島出身。もちろん、民衆抵抗の史実を隠喩的に想起し、軍政部への抵抗の意志を表明しようとの意識だ。

 とりわけ軍政への抵抗(そのころはもう民政部だったが)はワシントン講和条約が発効して、日本本土がGHQの監視下から自由になった後に盛り上がりを見せた。奄美群島本土復帰運動だ。彼らのレジスタンスだ。このレジスタンスでリーダーとなったのが、伊集田の先輩でもある徳之島の出身の詩人、泉芳朗(いずみ ほうろう)。終戦を大島視学の立場で迎えた教師でもあった。復帰運動中に名瀬市長になっている。この人は残念ながら、比較的早死にしてしまうのだが。

 徳之島とは、ひとり徳之島にとどまらず、このように、日本の国内植民地の歴史の中で(少なくとも奄美群島、南西諸島全体の歴史の中で)、抵抗の象徴の島であった。そんな島に何をしようというのだ?