パトリシオ・グスマン『私の想う国』(フランス、チリ、2022)
試写に呼んでいただいたので、観てきた。
前作『夢のアンデス』(2019)公開に際してパトリシオ・グスマンにインタヴューし、LATINAのウェブ版(note)に発表したのだった(リンク)。そのときグスマンは既に次回作のポストプロダクションに夢中で、今、チリでは凄いことが起こっているのだと興奮気味に語っていた。その次回作が、この作品。
2019年、地下鉄料金の値上げに反対し、サンティアーゴ・デ・チレの人々が金を払わず、入り口のバーを飛び越えて利用するようになった。それをやめさせようとする当局との間の衝突から始まるデモが拡大した。時の大統領セバスティアン・ピニェーラは「戦争」と宣言してデモの弾圧に乗り出した。放水車や催涙弾を放つ警官隊(carabineros)に対し、デモ隊は投石で対抗。当局はさらにこのデモを報道するジャーナリストたちの目すらも狙うようになる。それに抗議し人々は片目を閉じた姿で「お前の沈黙は共犯だ」とのシュプレヒコールを合唱する。こうした抗議運動はやがて憲法改正の要求へと繋がり、改正をするか否かを問う国民投票が実施され、可決され、憲法改正議会が開かれることになる。
こうした過程を追ったのが今回の作品の内容。『チリの闘い』からのものと思われる(あるいはその前の『最初の年』か?)かつての民衆運動をめぐるフッテージがところどころに挿入され、政党主導の運動であったかつてのそれとの対比で自然発生的に持ち上がってきた現在の運動が描かれる。監督が「最も驚いたことのひ一つ」としてあげたかつての、アジェンデ時代のシュプレヒコール “El pueblo, unido, jamás será vencido” (団結した民衆は決して打ち負かされない)が湧き上がるさまを捉える。ある種の連続性を印象づける瞬間だ。
が、もちろん、50年前と現在では運動は異なるものになる。現在のデモ隊は飛び跳ね、踊り、歌い、楽しそうだ。楽しいだけでなく、やはり何と言っても2019-20年の運動を特徴づけるは、目隠しをした女性たちが大勢で歌い、踊り、指さす、「暴行犯はお前だ」El violador eres tú の詩のパフォーマンスだ。女性への暴力やフェミサイドに抗議するこの集団パフォーマンスが今回のチリの運動に加わったことの効果を、映画は伝えている。この50年の間にもたらされた運動の変質を示しているのは、その音楽性だけではなく、女性がその運動の中心にいるということなのだ。憲法制定議会で発言する者も、その議長も女性だった。インタヴュイーのひとり、ジャーナリストのモニカ・ゴンサーレスの言うとおりだ。軍政時代に行方不明者を探して国中を歩き回った女性たちが、やっと家庭に戻ってどうにか通常の生活を始めたのだ、ここから先へは一歩も後戻りできない、と。
映画はガブリエル・ボリッチが大統領に選ばれたところで終わっている。実際のその後のチリでは、映画で扱われた制定議会の提案した憲法草案は国民投票で否決され、新たな右派優勢の制定議会ができ、しかし、彼らの起草した憲法案も否決された。映画内のインタヴュイーのひとり、チェス・プレイヤーのダマリス・アバルカは、最も恐れていることは結局ピノチェト時代の憲法がそのまま残ってしまうことだと懸念を表明していたが、現実にはその懸念どおりになったわけだ。民主主義は時間のかかる過程なのだ。この現実の挫折までもが今作の価値に含まれるべきだろう。
それでも、憲法改正の国民投票にいたるまでの過程は実に興味深く、コンフォーミストだらけの腐った国に住む身としては、チリの人々の行動が身もだえするほどにうらやましい。
12月20日、21日公開。
かつて、引っ越しの途中にトラックのタンクをぶつけてしまった隅石。『私の想う国』は石の映像に始まり石の映像に終わるものだったので。