福嶋伸洋『ニコの海』松籟社、2025
福嶋さんがかつて『すばる』に発表した「永遠のあとに来る最初の一日」(リンク)と、同じく『すばる』に発表した「海へ行くつもりじゃなかった」(リンク)改め「ニコの海」、これら以前に『群像』に発表した「その夏のジュジュ」を加えた3作をまとめた短編集。
2作についてはすでにリンク先に書いたように、雑誌掲載時に読んだ。実は「その夏のジュジュ」のことは知らなかったので、まずは、これから。ジュジュと呼ばれた本名を「最後まで知ることはなかった」日系ブラ人ル人(アフロ系)の思い出話は、むしろその後の『リオデジャネイロの雪』の後半のエッセイに連なる回想という印象だ。
しかし、それにしても、その「ジュジュ」と呼ばれた女性の本名を「最後まで知ることはなかった」と紹介するところが、この短編集を貫く過去への改悟の情(あるいはそれがサウダージというやつか?)を醸し出す役割を果たしている。
たとえば高校時代の思い出が中心をなす「ニコの海」では、国際交流プログラムによってアメリカ合衆国に行った「ぼく」がリサ・ローブの「ステイ」を「涼やかなアコースティックギターに透き通った声」まで憶えており、一緒に車に乗っていた高校生たちがサングラスをかけていたことまで憶えていながら、「その夏が過ぎれば二度と会うことのないアメリカの高校生といっしょに口ずさんだ」(65)と言ってしまう語り口に、同じく高校時代に「その夏が過ぎ」て二度と会わないアメリカ人高校生とひと夏を過ごした僕自身は、取り返しのつかない時間の前に感じる自身の無力に涙しないではいられない(いや、まあ、涙、は大げさだけど……)。
かつてアルバイトをしていたカフェを学位取得やブラジル留学、結婚などを経て久しぶり訪ねる別の「ぼく」(「永遠のあとに来る最初の一日」)が、すっかり変わってしまった宇田川町の街並みを「午前二時過ぎにアイスクリームを添えたフレンチトーストを食べたことがあった終夜営業のカフェや、バイト代一日分をいちどに使うこともあったレコードショップはなくなって、見慣れない店が増えていた」(9)との詠嘆を読むと、永遠なのはカフェのような建物なのか「フレンチトーストを食べたことがあった」程度のはかない思い出なのかとめまいがする。
そういえば何年か前、あの小説、まとめて単行本にすれば、と福嶋さんに話したことがあったけれども(それは僕自身がいろいろと雑誌などに書いてそのままにしている文章の数々をちゃんと本にしなければという思いがあるからだったのだが)、彼はそれを実現したということ。頭が下がる思いである。
(こんなビルもいったいいつまであるのだろう? の図)
