2024年11月7日木曜日

さざめきに殺される

前回の投稿で予告したとおり、


ロドリゴ・プリエト『ペドロ・パラモ』(Netflix2024)脚本:マテオ・ヒル


を観た。考えていたより長く、日をまたぐことになった。


言わずとしれたフアン・ルルフォの小説の映画化作品だ。小説版『ペドロ・パラモ』はフアン・プレシアード(テノチ・ウエルタ)を語り手に、彼が母親ドローレス(イシュベル・バウティスタ)の遺言によって父親ペドロ・パラモ(マヌエル・ガルシア‐ルルフォ)に会いにコマラという田舎町にやってくるところから始まる。ところが、ペドロ・パラモは死んでいるというし、それを教えたロバ追いのアブンディオ(ノエ・エルナンデス)もペドロ・パラモの息子だと言い張るし、やってきたコマラはゴーストタウンのようで、迎え入れたエドゥビヘス(ドローレス・エレディア)は死者と話ができるようだし、どうやって知ったのかわからないダミアーナ・シスネーロス(マイラ・バターヤ)がフアンを迎えに来るものの、彼がついていったら彼女は途中で消えるし、どうにもあやしい雰囲気である。コマラでは死者たちのささめきがするのだ。そのささめきがペドロ・パラモの過去を語るし、フアンもいつしか、自分もまた死んでいることに気づいたりする。断片形式でいったり来たりしながら語られるので、ストーリーを再構成するのが難しい/楽しい話だ。僕もダミアーナ・シスネーロスとかバルトロメとスサナのサン・フアン父娘などの名をはっきりと覚えているのだが、ストーリーはそのつど再読しないと忘れてしまいがちだ。


映画版は、断片化という原作の性質をそのままに、しかし、小説にある簡潔さに対し、説明的なシーンなどを添えてストーリーを分かりやすくしている。これまで何度読んでも筋を忘れてしまっていた僕も、なるほど、確かに、あれはああいう物語だった、と納得できるのである。そうして明らかにされるペドロ・パラモの生涯についてはここで事細かに紹介はしないが、小説を未読の者にとっては、結末はなかなかにショッキングである。あれ、こんな話だっけ? と思って読み返してみると、いや、確かにこの結末のつけかたは小説を忠実になぞっているのである。つまり原作を読んだものにも充分にショッキングである。


コマラでのフアンの行動は夜の闇につつまれ暗く、過去の回想は明るく、まだ緑も多い田舎を背景にしており、コントラストが印象的だ。ペドロの右腕フルゴール(エクトル・コツィファキス)の最期のシーンなどは、さすがはスコルセーゼ(スコセッシ)の撮影監督で知られたプリエトらしく、印象的だ。フアンが自分が死んでいることに思い至るシーンも、ルーベンスのようで、一興。


昨日行った砧公園の最寄り駅・用賀駅