2021年1月1日金曜日

一年の計を立ててみた:読書すること

正月早々、怖いものを見た。管啓次郎さんがFacebookで、「今年は本を読もう」と決意したと宣言していて、その流れで、橋本努さんのサイトに再掲載されたある文章にリンクが貼ってあった。そこには岸本重陣が「一日、百ページを読まない人は、学生とはいえない」と言っていたとか、廣松渉が「一日、六百ページを読まないとダメだ」と学生に言っていたなどということが語られていた。橋本さんはさらに別の場所で廣松渉自身が書いた文章のPDFも掲載していた。そこには彼が学生時代「毎日七百頁をノルマにしていた」と書かれていた!


参ったな。そういえば、ネルソン・オソリオは大学院に入った教え子たちひとりひとりに「あなたは読書の時間、毎日何時間取れますか? 十時間ですか? 十五時間ですか?」と訊ねていたという。


僕だって、そりゃあ、学生のころは一日一冊読むことを目標にしていたし、現実には今でも百ページとくだらない量を読むことになってはいるのだが……「目標」を絶対に常に達成していたとは言えないし、なんだかだらだらと怠け者のままここまで来てしまったな、と自己嫌悪に陥るのである。


年末読み終えた小説のひとつがアンドレス・バルバ『きらめく共和国』宇野和美訳(東京創元社、2020)。これがえらく面白かった。サンクリストバルという架空の町にどこからともなく現れて悪さをして近くのジャングルに消えて行く子どもたちの集団がいて、その彼ら32人が死んで発見されるという事件があった。それが1995年のこと。それを20年以上経って語り手の「私」が、そのときのことを調べ直すという体裁だ。ガルシア=マルケス『予告された殺人の記録』式の物語かと思いながら読み進めると、そもそも当時からその町の役人だった彼は、実は当事者としてその死の発見に立ち会っていたこともわかる。立ち会ってはいてもなおわからない子どもたちの謎を彼は少しでも知りたいと思っているようなのだ。


一方で、語り手の「私」にはヴァイオリニストの妻マヤとその連れ子ニーニャがいたのだが、今では妻は病死し、ニーニャも独り立ちしていることがほのめかされ、「私」の再調査の過程は自身の人生の意味の探求の色合いも帯びてくる。格言めいた言葉に虚を突かれることになる。「マヤが死んだ今、結婚の本当の目的は、話すことにほかならないと私は思うようになった」(51ページ)とか……


アンドス・バルバ。あるエージェントに薦められた作家であり、何冊か持ってはいるのだが、ちゃんと読んでいなかったのだな。あなどれない……なんてことを、一日七百ページばかりちゃんと読んでいれば、今どきこんなことは言わずにすんだのかもしれない。へい。今年はもう少し真面目に勉強します。