何度か書いていると思うが、新国立劇場演劇研修所の修了公演にご招待いただく。今年、12期はアーサー・ミラー『るつぼ』がその演目だ。水谷八也翻訳、演出は現在の同劇場芸術監督・宮田慶子。
『るつぼ』はセイラムの魔女裁判(このバージョンではセイレムと表記)を扱った戯曲だ。マッカーシズムの嵐が吹き荒れるころに書かれたものだ。映画『クルーシブル』(1996)の原作。
セイラムの魔女裁判は、ニューイングランド植民地の同名の村で十七世紀に起こったもの。若い女性が集団ヒステリーから魔女を名指しし、始まった裁判では次々と魔女認定がされ、何十人もが絞首刑になった。
ミラーの戯曲は魔女を名指しして聖女のように扱われたアビゲイル・ウィリアムズ(川飛舞花)が、奉公に出ていた先で関係を持った農場主ジョン・プロクター(河合隆汰)の妻エリザベス(永井茉梨奈)に抱いた嫉妬をそもそもの中心に据えている。プロクター夫妻のキリスト教徒としての倫理観と集団ヒステリーへの態度が2幕以降の展開を支える。
魔女裁判の特徴は告白にある。魔女を見たと告白した者は、罪を認めたとして罰が軽減されるというパラドックスが成り立つ。その点はたとえば『裁かるるジャンヌ』のジャンヌ・ダルク裁判と変わりない。問題は、罪を認めることはキリスト教徒としての堕落を意味し、自らの名を汚すことを意味するということ。名を汚して生きながらえるか、立派なクリスチャンとして死んでいくかの問題だ。この場合、いずれの選択もあきらかな狂気への屈服をも意味するから耐えがたい。
法廷の場面こそないが(裁判所の控え室の場はある)、罪を認める認めない、何が罪であるかないか、などをめぐる言葉のやりとりの劇なので、裁判劇の変種と見ていいのだろう。緊迫感たっぷりであった。
このできごとを題材にした小説に、マリーズ・コンデ『わたしはティチューバ』がある。事件の発端となった少女たちの集会で、魔術を使ったとされるバルバドス出身の女性を題材にしたものだ。風呂本惇子・西井のぶ子訳で邦訳がある(新水社、1998)。訳者の風呂本による「あとがき」ではティチューバをこのできごとの重要人物のひとりとして登場させた先駆的作品が『るつぼ』だとのこと。