2012年10月28日日曜日

読書できない秋


ボラーニョ『2666』も読み終わらないうちに続々と気になる新刊が出て、そのうちの何冊かは献本をいただいたりして、嬉しい悲鳴を上げるばかりで、読書が進まない。

アレハンドロ・ホドロフスキー『リアリティのダンス』青木健史訳、文遊社

なんざ特筆に値すると思うし、

フリア・アルバレス『蝶たちの時代』青柳伸子訳、作品社

も早く読みたい。トルヒーリョ時代ドミニカ共和国を扱った一連の小説と比べて読みたいのだ。小説ではないが、

ホセ・ルイス・カバッサ『カンタ・エン・エスパニョール:現代イベロアメリカ音楽の綺羅星たち』八重樫克彦・八重樫由貴子訳、新評論

などというのもいただいた。

が、ともかく、一番最初に読み終えたのが、やはり、

キルメン・ウリベ『ビルバオ―ニューヨーク―ビルバオ』金子奈美訳、白水社

「僕」こと語り手のキルメン・ウリベが、ビルバオ発フランクフルト経由ニューヨーク行きの飛行機に乗っている間に回想する彼の祖父、父、その家族、そして画家アウレリオ・アルテタとその親友の建築家リカルド・バスティダ、その家族らの話、それぞれがそれぞれの人生の局面でかかわりを持った行き交う人々の記憶。そうした記憶の断片が、絶妙なつなぎ方でまとめられた語りだ。

この語りの連関のさせ方が興味深いところだが、何よりも肝心なのは、これが以下のような意識に裏打ちされて紡がれた語りだということ。

 僕はフィオナに小説の計画を話した。アイデアは固まりつつあり、最終的にはビルバオ―ニューヨーク間の空の旅を軸としてすべてが展開されるはずだ、と。十九世紀の小説に後戻りすることなく、ある家族の三世代について語るには、それが肝心なことだった。そこで、小説を書くプロセスそのものを語ることにして、三世代の物語は断片的に、ごく断片的に提示されることになるだろう。(141-142ページ)

「十九世紀に後戻り」は言い過ぎだろう。20世紀に入ってからも「三世代の物語」は書かれてきた(たとえば、『精霊たちの家』。この2倍の世代だと『百年の孤独』……)。でもまあ、ともかく、これはそんなお馴染みの物語を語ったものなのだ。でもそれが紋切り型に堕さないのは、「小説を書くプロセスそのものを語る」ことにしたという、この体裁のおかげだ。

で、しかし、語り手が語りの手の内を明かし、それがフィクションであることを暴露するようなフィクションをメタフィクションというのだった。これはだから、メタフィクションでもあるわけだが、メタフィクション、という語から受ける印象ともずいぶん違うのは、オートフィクションの形式を取っているからなのだろうな。

キルメン・ウリベはもうすぐ来日して、東京外国語大学セルバンテス文化センターで講演やら朗読会やらをする。ぜひ、ご参集いただきたく。