渡邊さんの書いておられる、体の不調を訴えた「昨年の12月」、まさにぼくは福井さんにお目にかかったのだった。牛島先生の遺影に線香をあげに行ったときのことだ。福井さんは牛島先生の教え子というわけではない(長南実さんの教え子だ)のだが、先生の教え子たちで毎年、命日の前後に線香をあげに行くときにはたまに顔を見せることがあった。去年は久しぶりではあったが、そうした機会のひとつだった。牛島先生もガンの発見が遅れ、見つかったと思ったらあっという間に亡くなった。ちょっと前には福井さんの少し後輩(同期?)にあたる杉浦勉さんが、やはり病気の発覚後、すぐになくなった。福井さんもそうした人々と同様の道をたどったということだろうか?
福井さんからは、それこそ渡邊さんたちと一緒にした仕事、中央大学人文科学研究所編『続 愛と剣 ——中世ロマニアの文学』(中央大学出版部、2006)をご恵贈賜ったのだった。彼はこのときはもうこの研究所の所長をしていただろうか? 少なくとも渡邊さんとともにこのプロジェクトを率いていたことは間違いない。言語/国民国家ごとに区切られた文学史の枠を超え、中世ヨーロッパの叙事詩などのトピックに切り込んだ興味深い論文集だ。タイトルにもあるとおり、中心をなすのは、剣。
福井さんは、ご自身の専門であり、翻訳もなされた『わがシッドの歌』についての考察(「シッドの剣」〔425-456〕)でトリを取っている。
古来、いかなる文明であれ例外なく、その揺籃期に、一人の若者が何らかの邪な力に立ち向かい、夷狄や魔物との血なまぐさい抗争の果てに、去りゆくものへの悲しみと生あることの喜びを歌い上げた言語芸術を擁す。たいてい若者には出生の秘密があり、それを知らされないまま成長した青年はすぐれた剣を手に駿馬にまたがって立派な戦士となり、人を愛することを覚える。(425)
スペイン中世の叙事詩『わがシッドの歌』の主人公シッドの名剣コラーダとティソンについてを「抜かずの剣」であるがゆえに魔剣であり、むしろこの二振り剣こそがシッドに代わって物語の中心をなすのではないかと提起したものだ。
ああ、こんな楽しそうな話を展開しているひとが、ひとりいなくなった……