2012年5月12日土曜日

連休は遠くなりにけり

最近の収穫。といって写す本の背景には再校に突入しているもうすぐ出る本などを置いているのだから、われながら、あざとい。

まず、ついに出た!

マシャード・ジ・アシス『ブラス・クーバスの死後の回想』武田千香訳、光文社古典新訳文庫、2012

めでたい。が、どうじに、光文社のこのピンクのシリーズは本当にピンクで十把一絡げにしている地域(英米、独、仏、露、伊以外)につめたい。この本なんて、原稿が手渡されたのはもう5年くらい前のはずだ(ぼくの渡したペレス=ガルドスなど、もう忘れられているのだろうな)。そのことを嘆くべきなのか、それでも出たことを言祝ぐべきなのか。その間に国際語学社というところから別の人の訳で出版されているから、本当に「新訳」になってしまった。タイトルに示されるとおり、ブラス・クーバスという死者が自分の人生を回想するという、19世紀の小説にはなかなか珍しいのじゃないかと思われるファンキーさを有した作品だ。

エトムント・フッサール『間主観性の現象学 その方法』浜渦辰二/山口一郎監訳、ちくま学芸文庫、2012

エドムンドでもエドムントでもなく、エトムント、だ。

由良君美『みみずく偏書記』ちくま文庫、2012

四方田犬彦の『先生とわたし』による回想を読むまで、あまりよく知らなかったのだ、由良君美のことは(たとえばソンタグ『反解釈』の翻訳は、ぼくが学生のころは見当たらず、まず英語で読んだ。その後、ちくま学芸文庫版で読んだのだが、これは大勢による共訳で、あまり由良の仕事との印象がない)。なかなか面白そうな人だとの印象。四方田の本の後で、それが後押ししたのか、1冊か2冊、復刊したものがあったように思う。今回は文庫になったので、買ってみた次第。解説はさすがに彼を「酒乱」とした四方田ではなく、富山太佳夫。ずいぶんと強く感化されたようである。

そんなダンディでかっこいい由良センセイの本の読み方や、読んだ本の話などが収められた1冊。70年代のものが多いから、やはり田舎の中学生・高校生だったぼくなどはよく知り得なかったのだろうな。

さて、センセイ、「斜め読みは、わたしは原則としてしない」そうである。しかし、モノグラフならば、「序と第一章を読み、目次に戻り、重要な展開部に当る数章に狙いをつけ、さて結論に飛び、脚注と書目に目を通せば、もう分かってしまう」そうである。こういう、あまり明かしたがらない手の内をさらっと明かしてしまうところなど、なかなか好意を抱かせる。極めつけは「あとはその部門の研究史上、画期的といえるかどうか、文体がめでたいか否かを自分で評価し、頭に入れておけば良い」(267ページ、下線は柳原)

さらに、由良センセイ、ノートやカードは取らないそうである。

知識として大脳を富ませてくれるというより、知識以前の漠たる形で意識下に沈む事柄の方が多い。そうでないと読書はどうも愉しくない。マイケル・オークショットが言っていたように、そもそも人文系の学問を、知識を蓄えるためにするのは邪道である。いかに多く学び多く忘れるかが正道である。逆説的に言えば、わたしは沢山忘れるために沢山読む。だからカードにして整頓などしない。(169ページ)

かっこいいのである。

……? こんなことをちまちまとブログに書きつけるぼくなどは、つまり、せこいのである。