2011年2月2日水曜日

早口で脱線を重ねながら

甲州街道が渋滞だとかで、菊地成孔は少し遅れてやって来た。遅れてやって来て機材のセッティングをしてから一旦は控え室に下がり、戻ってきて授業を始めた。ポップミュージックのリテラシーを広める活動をしているのだというようなことを語りながら探り探り話に入っていく。話の中心は、音楽は言語か? というアポリアを巡って、ジャズを題材に考えるというもの。チャーリー・パーカーにいたってジャズが言語を持つに至ったと、プレーヤーも批評家も考えることになるのだが、それはつまり、言語としての崩壊の始まりを標しているからこそ反語的にそれが言語であるということを意識させたのだということだとか。

その崩壊を標しているのが、パラレル・コードの多用によるコード演奏からの逸脱なのだと、逸脱しつついつの間にか戻ってくるその奔放さなのだとか。そんなことを菊地は早口で、脱線に脱線を重ねながら説いた。まるで、当のチャーリー・パーカーの演奏のように。(ここで少し脱線するなら、ぼくはかまやつひろしがジャズなどからはほど遠い彼のヒット曲「わがよき友よ」を、ほぼ1ストロークずつコードを変えてギターを弾き語りしているのをどこかのTV番組で観たことがある。パラレル・コードだ!)

バードの採譜不可能性を語りながら、つい2日前にあるところの授業(芸大?)で、学生と菊地とで採譜した譜面が違うことをもとにして議論したのだと、そのときの資料など示しながら語った。うむ。楽しそうな授業だ。

そういえば彼、「カルペンティエル地下文学賞」と銘打ったコンサートなどやっている。終わって控え室で訊いてみたら、カルペンティエールはわりと好きなのだという。翻訳者としては嬉しいところ。まさにぼくの訳した『春の祭典』で、音楽学の大学院生アダがキューバのリズムを採譜しようとしてはうまくできないと嘆く場面など、彼は読んでくれているのだろうか? リズムにきっちり合わせるのでなく、独特のずれを作る余裕がないから、自分は一流になれないのだとの主人公のバレリーナ、ベラの吐露を読んでくれているのだろうか?