2010年11月24日水曜日

辞書を引かない話

ところで、昨日書いた『文学テクストにいかにコメントするか』のような本が日本語でもあればいいなと思ったのであった。

河野哲也『レポート・論文の書き方入門 第3版』(慶應義塾大学出版会、2002)第2章は「テキスト批評という練習法」というもので、この「批評」が「コメンタリー」のことであって、文学の授業などから敷衍されるようになった方法であることが明記されてはいるが、いかんせん、コメンタリーは主題の提示に始まって云々、とコメントを書く際の構成の話に重点が行き、面白くない。辞書を座右に置く、なんてインストラクションから始まるコメンタリーのしかたの本。それが欲しいとぼくは言っているのだ。

であれば「辞書を座右に置く」ことの指示は、日本には多くあふれる読書論、読書のしかたマニュアルのようなものに求められるべきなのだろうか? でも辞書を引くことを説いた読書マニュアルはそう多くはないように思う。平野啓一郎『本の読み方——スロー・リーディングの実践』(PHP新書、2006)は「『辞書癖』をつける」という項(62-65)を立ててはいるし、そもそも「スロー・リーディング」を勧めているのだから、「ゆっくり読まなければならない」と書いたラサロ=カレテールとコレア=カルデロンに近いかもしれない。しかしこれはインストラクションと実践例がそれぞれ離れた場所に書いてあって、どうにも歯がゆい。「辞書癖」云々にしても余計な個人的例が書いてあって脱力する。

こうした読書論の多くは自己啓発本のようなもので(と平野自身も書いている)、実際に本を読んだりそれについて書いたりする人のためのマニュアルではないので、個人の実践のしかたなどでページが水増しされるのはしかたのないことかもしれない。そして同じく平野が書いているように、その種の読書論の多くは、速く読むことを勧めている。いわゆる「速読術」とは違うものであったとしても、速く読めと勧めている。これでは辞書を引くことなど勧めようがない。

矛盾するように響くかもしれないが、前にも書いたように、ぼくだってふだんはあまり辞書を引かないし、「速読術」というようなものは身につけていないが、それでもだいぶ速く本は読む方だと思う。寝室専用とか、電車内専用とか、いくつかの読み方をするので一概には言えないが、ともかく、速く読む。一度目の読みだからだ。いずれゆっくり読み、翻訳し、論文に書かなければならないとしても、とりあえずはひととおり目を通して、おおざっぱに内容を把握する。内容を把握していなければ、ただゆっくり読むと、想像が暴走しかねないからだ。想像の暴走。すてきなことだが、まあ徒労のときも多い。

思うに、対象が外国語だと、この「速く読む」ことと「ゆっくり読む」ことのメリハリがついてわかりやすいのではないだろうか。なまじ母語だと速く読んでもゆっくり読んだ気になって始末が悪い。「始末が悪い」は言い過ぎだろうが、少なくとも、速く読んでも、その次にゆっくり読むことを忘れがちだ。まあ「ゆっくり読む」ということは二度目の読みをするということだから、二度目に読めばいいのだが、それを忘れてしまいがちだ。外国語だとわかりやすい。「速く読む」とは辞書を引かずに読むということであり、「ゆっくり読む」とは一字一句辞書を引きながら読むということだ。

さて、こうして2つの矛盾する当為の命題が現れる。「速く読め」と「ゆっくり読め」。しかしこれらは特に矛盾するものではない。「まず速く読め、そしてゆっくり読め(読み返せ)」と併存するものであったり、「二次資料は速く読め、しかし批評の対象はゆっくり読め」と棲み分けるものであったりするからだ。このように使い分けながら本は速く読んだりゆっくり読んだりしている。辞書を引かなかったりうんざりするほど何度も引いたりする。

ところで、以前、ある大学院生に「一字一句辞書を引け」と言ったら「そんな暇はない」と笑われた。その同じ学生に「二次資料は速く読め、1日以上かけるな」と言ったら「そんなんじゃ研究なんかできません」と言われた……うむ。一見矛盾するような当為命題を掲げると、向こうも矛盾するような反論をしてくるものだ。でもなあ、これ、かなり本気で言ったんだけどな。