2010年8月28日土曜日

逃避

映画や小説にはストーリーとは無関係に心に残ってしまう場面、一節というのがある。ストーリーを忘れてもそこだけ忘れないちょっとした細部だ。最近観た『瞳の奥の秘密』では、ごく最初のころのワンシーンがそうなるだろう。主人公が忘れられない事件を小説に書いていることを示すシークエンスの一部で、寝ていた彼が突然何か思いつき、枕元にあるメモパッドにある語を書きつける、という場面だ。

書いた語は "Temo" (私は恐れる)で、これが後半、この中にあるひと文字を挿入することによって違う意味を持つフレーズとなり、主人公の行動を動機づける。そのことの伏線であり、同時に小説化しつつある事件の不気味さに彼自身が恐れをなしているということを観客に知らしめる語となるメモだ。それがこの場面のプロットに対する機能。だが、ぼくがこのシーンを気に掛けるのは、そんな機能のゆえではない。機能とは無関係にこのシーンが告げていることは、主人公のベンハミンが一心不乱に小説を書いているということだ。夢は記憶と思考を整理する。起きている間、ひたすらあることを考えていれば、寝ている間に行き詰まりを打開するようなアイディアが湧くこともある。彼はそこまで書きかけの小説に没頭していたということだ。

既に書いたことだが、たとえばボラーニョの『野生の探偵たち』には、毎朝最低でも6時間はものを書くことを自らに課すことによって作家になった人物というのが出てくる。バルガス=リョサも似たようなことを言っている。毎朝6時間くらいは執筆するのだと。たとえ筆が進まなくても進めようと努力するのだと。昨日、NHKの「スタジオパークからこんにちは」というトークショウで高橋源一郎が言っていたことは、彼が小説を書こうと決意してから、毎日最低3枚書くことを自らに課し、それができなければ作家になることはあきらめようと覚悟し、書き続け、2年後にデビューできたのだということ。

書くばかりではない。かつてどこかに紹介したかもしれないが、ぼくの恩師は、この道に進もうと決意してからというもの、毎日最低でもスペイン語の小説を30ページ読むことを自らに課したという。それを聞いてある先輩は、それならと毎日40ページ読んだという。

ぼくはこのように努力する人たちのその努力を美しいと思う。ぼくも似たようなことをしたいと思うのだが、そうしたことができたためしがないのだ。で、こうした努力ができていれば、ぼくだって立派な作家になったか、もう2冊くらいは本を出しているか、もう3冊くらいは翻訳を出しているかしたんだろうな、と仮定法の思想を展開して悲しんでいるばかりだ。高橋源一郎の毎日3枚(1200字だ。今ならA4用紙1枚というところだ)なんて分量は、肉体労働をしながらの話だから、つつましく現実的な目標で、授業を抱えながらのぼくらにも参考になる。毎日最低でも1枚訳せば、年に1冊以上の翻訳は出せる。毎日1枚書けば、1冊本は出せる。毎日30ページ読めば、10日で1冊読み終わる。それくらいの努力がなぜできないかなと自らを呪う。

きっとぼくはロマン派的な天才の概念にとらわれているのだろうな。インスピレーションを得て一気呵成に書き上げる。一気呵成だから、それは締めきり直前でなければならない。だから締め切り直前まで何もしなくてもいい。締め切り直前になればすべてが解決するはず。だってぼくは天才なんだから(!?)……

明日、29日、あるところで講演しなければならいのだけど、ということはその準備をしなければならないのだけど、まだ終えていないのだ。なぜ毎日少しずつでいい、こつこつと着実に準備を続けて来なかったかな? と後悔しているという話だ。出るのはため息ばかり。

明日、がんばります。