2010年3月30日火曜日

身もだえする


チーズまんじゅう(これが絶品)やらかりんとうやら、いろいろとお土産をいただいた。ワインやサフランも。せっかくサフランをいただいたのだから、パエーリャでも作ろう。そのうち。

瀧本佳容子「アメリカ『発見』前夜のスペイン文学」は昨日挙げた『ラテンアメリカ 出会いのかたち』に所収のテクスト。ここで瀧本さんはスペイン留学中の話を書いてらっしゃる。マドリード・コンプルテンセ大学大学院の雰囲気とその変化も大いに気になるところだが、一度目の留学の際に聴講したという学外講義の話が何よりも身もだえするほどうらやましい。

王立アカデミーと名誉教授自由学校で講義を受けたというのだ。後者では『スペイン語の歴史』のラファエル・ラペサの講義に出たと。学生やかつての彼の学生だったような年配の人などが出席していて、一度など、質問も出ないくらいずっと彼の話を聞いていたいとみんなが思っていたのだと。何とも唸らせる話だ。

フランスにはコレージュ・ド・フランスという、大学とは異なる一般人向けの学びの場がある。フーコーなど、フランスの名高い知識人の多くは、ここの教授だった(ミーハーなぼくは、この前で記念写真を撮ったことがある)。コレージュを手本に、メキシコにはコレヒオ・ナシオナルというのができた。大学院中心の教育研究機関コレヒオ・デ・メヒコと同じく、アルフォンソ・レイェスがその設立に尽力したのだが、実はぼくはこのコレヒオ・ナシオナルについて多くを知らない。なんとも恥ずかしい。で、この名誉教授自由学校というのは、大学教授に定年制が導入されて以後、サンタンデール銀行などが出資してできた学びの場だというのだ。そこでラペサが、お付きの人に支えられながらも登壇し、しかしかくしゃくとして最新の知見を披露する講義を行ったというのだ。瀧本さんはその現場に立ち会った。ああ! 

確かに、若いころのぼくは、大学でも授業なんてほとんど出なかったし、偉い学者の話などたいして聞きたいとも思わなかった。それは多くの場合、日本の知識人が、面白いものを書く人でも話がへただったりしたからだ。少なくとも若いころのわずかな経験では、そのような観測を得たからだ。たぶん、話の面白い人だってたくさんいるだろうとは思うのだけど。まあともかく、大学の先生などは話が下手だな、と思う人が多かった。下手でなくとも、もどかしいなと思っていた。これではひとりで読む方が速いなと。

話の下手な人、少なくとも上手くなろうという意志の感じられない人、聞く者の気持ちを考えずに話す人への嫌悪感は相変わらずあるが、でも誰かの話を聞くことというのは、話の内容などとは無関係に、ある種のパフォーマンスへの参加として面白いし、重要なことだと思う。だから誰それのいつの話をどこそこで聞いた、などという話を聞くと、嫉妬を感じてしまう。ましてや、誰でも自由に、無料でその人の話を聞ける場があるということにはうらやましさを感じる。