2009年8月24日月曜日

お台場参り


前回、屋形船で野崎参り、と書いたのは、もちろん、事実ではない。東海林太郎の歌った「野崎小唄」(野崎参りは/屋形船で参ろう♪)のこと。実際には屋形船で行ったのはお台場。ガンダムは見えたとか見えないとか……

とある酒場が得意客サービスとして行った納涼屋形船遊びに便乗した別のバーがあり、その辺から話が回ってきてぼくも夕涼みに行ったという次第。台場沖には大小様々な屋形船が浮かんでいた。飲み放題、刺身やら天麩羅やらの食事つき、2時間。

二日酔いはしていないはずなのだが、本当は昨日までに終わらせると予告した仕事を一日遅れで仕上げ、送付したときにはすっかり薄暮に包まれていた。風がだいぶ涼しくなっている。もう秋だということか? 

2009年8月22日土曜日

もうすぐ……

「もうすぐ夏休みが終わる」などとラジオか何かで言っていたが、冗談じゃない。ぼくはまだ夏休みにすらなっていない。信じられないかもしれないが、木曜日には会議があり、成績は期限内にどうにか提出を済ませ、今日も今日とて日本イスパニヤ学会理事会というやつで名古屋まで出張。

これが終わったら屋形船(で野崎参り?)とか、遅れを取り戻すかのような計画が待っているが、……

ここに既にぼくの仕事の予告が出ているのを見たりすると、ここからが書き入れ時と励むしかないのかと観念するのみ。

……名古屋に行ってきます。

2009年8月18日火曜日

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キューバ映画祭2009@ユーロスペース

初日はぼくは他のイベントに出なければならない。「キューバ学校」というやつ。そこでちょっとばかりお話しすることになっている。

ところで、信じてくれないかもしれないが、いまだに採点が終わっていない。まあ締め切りはまだなのだから、それでもかまわないといえば言えるのだが。

決して怠けているわけではない。そればかりにかかり切りになっているわけでもないから、こうなのだが、何しろ、読まなければならないレポートやら授業中の課題やらが多いし、ぼくはそれにいちいち感情的に反応してしまうしで、エネルギーを要する。

2009年8月14日金曜日

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相変わらずパブリシティが遅れがちなこれ、今年もやります。もう「ラテンビート・フィルムフェスティバル」とは名乗らないのかなあ? 第6回LATIN BEAT FILM FESTIVAL(ラテンビート映画祭)

今年の売りはゴヤ賞を総なめにした『カミーノ』か? アンへレス・マストレッタの同名の大作を映画化した『命を奪って』なんかもポイントか?

去年の12月にグワダラハラのブックフェアに行ったら、マストレッタのこの映画化作品を巡る討論会があって、覗いたのだった。アンへレスおばさん、客席から舞台に向かう途上で既に四方八方に大げさに手を振ってスター気取り、1984年の原作発表当時から映画化の話があったものの、それが運命に翻弄され、やっと今になってできあがったと、苦労話をしていた。「あなたの小説には勝ち組の人しか出てこない」とのある批評家の指摘にはすっかりご機嫌をななめにしちゃって、そっぽを向いていた。絵に描いたようなオカマっぽい別の批評家が取りなしたりして、あれはなかなか面白い討論会であった。

映画のできは、見てないのでわからない。見ておこう。

ブレヒト『母アンナの子連れ従軍記』谷川道子訳(光文社古典新訳文庫、2009)は、長く『肝っ玉おっ母とその子供たち』として知られたブレヒトの代表作。2005年に新国立劇場で大竹しのぶ主演で舞台に架ける際、『母肝っ玉』として新訳を使った。その新訳をやったのが谷川さんで、それをもとに出版されたのが、これ。めでたい。

2005年のものが今、本になるのだから、今年の1月に仕上げた訳がまだゲラにもならないことにじりじりしていてもしょうがないのだな。

2009年8月12日水曜日

まだ青

今日は運転免許証の更新に行ってきた。警察の陰謀により一時停止場所不停止で罰金を食らっているので、まだ青だ。いつまで経ってもゴールドにはなれない。青だ。

きっと今日あたり試験場は混んでいて駐車場に入れるには待たなければならないだろうと予想したので、武蔵小金井の駅からタクシーで行った。案の定、いっぱいだった。

何を血迷ったか、帰りは徒歩で帰宅した。

武蔵小金井まで歩こうと思ったのだ。タクシーでワンメーターだし、ゆっくり行こうと。そしたら途中で、このレストランはまだあるかなと確かめたくなったのだ。まだあった。でも、ここまで来たら、右に行っても左に行っても同じだと思い、左に歩いているうちに、このまま家まで歩いてしまおうと思った次第。

2時間ばかりもかかった。とは言え、昼食を摂ったり、今度のイスパニヤ学会理事会のために駅に寄って(どういうわけか、会うはずもない教え子に会った。ばったりと)新幹線のチケットを買ったりしていたので、正味、1時間半というところか? 

灼熱、とまではいかなくても、そこそこ熱い太陽に照らされ、よせばいいのに熱吸収率の高い黒のポロシャツを着ていたぼくは、ふらふらになり、途中、何度もシャツを脱いで上半身裸になりたい衝動に駆られた。

南海の孤島(本当は「孤島」ではないのだけど。群島のひとつだ)で育った人生最初の15年間、夏にはこうして汗をかき、シャツを脱ぎ捨て、上半身裸で過ごすことも珍しくはなかった。夏とはこうしたものだった。日差しと汗、上半身裸、くたくたに疲れての帰宅、扇風機、大量の水、昼寝。

来るべき筋肉痛。

免許証の顔写真は更新するたびに情けなくなる。

2009年8月8日土曜日

早めの到着

いつもより何日か早めに届いたのは、お盆の関係だろう。『NHKラジオ まいにちスペイン語』9月号

今月の「愉悦の小説案内」はボルヘス。『伝奇集』。

これが来たということは、そろそろ2ヶ月後の原稿を出さねばいけないということ。出さねば。

2009年8月7日金曜日

マンモスびっくり!

不良上がりのチャラ男が二人、立て続けに薬物関係で逮捕され、いずれも妻が美しくけなげ、なんでこんな男にだまされたのか……というイメージだったため、悲劇のヒロインになりかけていた、というと語弊はあるが、少なくとも彼女たちに同情的な報道がなされていた、と思ったら一転、二人目の人物の妻は覚醒剤所持で逮捕状が出たというから、大騒ぎ。逮捕されたチャラ男ではなく、泣き崩れ、悲しんでさまよい、行方知れずになったはずの妻こそが実は覚醒剤の常用者か? という話になっている。

でもなあ、NHKの7時のニュースを見ながら食事していたぼくは、トップにそのニュースが来て、10分もその話題に費やしたのを見ながら不思議に思う、それほどのニュースヴァリューがあるのかな? 薬物で逮捕される人間が何百人、何千人いるのかはしらないが、少なくともひとりや二人でないはず。そんな数ある罪人……いや、容疑者のひとりが女優・歌手であるということはそんなに大事なのかなあ?

あ、でもぼくだって時々、年甲斐もなくうれピー! なんて言っているんだから、彼女の影響下にあるということか? それだけ絶大な影響力を持った人物ということか?

昨日は元教え子たちと食事、酔っぱらって帰宅、今日は秘密の会議。2年連続で2つも秘密を抱えることになっている。

2009年8月5日水曜日

尹(ユン)とペン

採点がいつまで経っても終わらない。


手前はラミーのサファリ。赤がかわいいペン。

向こうはご恵贈をいただいた。

尹慧瑛『暴力と和解のあいだ――北アイルランド紛争を生きる人びと』(法政大学出版局、2007)

北アイルランドの連合維持派、いわゆるユニオニストを扱ったもの。うむ。「拡大型ナショナリズム」なんてものをかつて扱ったぼくには斜めから光を射すような書。夏休みの課題図書だ。

まだ夏休みには入りきれないのだけどね……。

2009年8月3日月曜日

昨日のこと

昨日は世田谷美術館に『メキシコ20世紀絵画展』というものを見に行き、帰りはメキシコ料理。ひと言で言って、メキシコ三昧の1日……なのか?

「メキシコ20世紀」というと、どうしても壁画の印象が拭えないけれども、その壁画で有名な巨匠たち(リベラ、オロスコ、シケイロス、ということ)のタブローのいくつかに加え、ロベルト・モンテネグロだとかガブリエル・フェルナンデス・レデスマといった人々の作品群を展示している。今回の売りは本邦初展示のフリーダ・カーロ「メダリオンをつけた自画像」で、チケット、チラシなどもそれを全面に押し出し、この作品だけ特別に贅沢に展示している。だけどカーロはこれひとつ。ちょっと前に見に行った教え子がそのことを嘆いていたけれども、まあメキシコ20世紀はフリーダのためだけにあるのじゃない、ということか?

名古屋市美術館蔵のホセ・グワダルーペ・ポサーダ版画展を併設、「利根山光人とマヤ・アステカの拓本」も楽しい拓本実践コーナーつき。

2009年8月1日土曜日

祝!

ぼくにも先生と呼べる人がいる。

そのうちのお一方が3月で慶応大学を定年退職されたので、その祝賀会を弟子筋で執り行った。それが昨日(7月31日)のこと。

清水透先生というその方は、ぼくが大学に入学した年、メキシコ民俗学史上重要な本であるリカルド・ポサス『フワン・ペレス・ホローテ』を翻訳し、かつ、この本でインタビューされているフワン・ペレスの息子にご自身がおこなったインタビューを編纂して続編として付し、『コーラを聖なる水に変えた人々』というタイトルで出版された。現代企画室インディアス群書の第1回か2回の配本だったはず。大学1年だったぼくは当時まだガリ版刷りだったサークルの機関誌にこの本の書評を書いた。サークルに協力してくれていた大学院生たちが先生にその機関誌を持って行って見せたようで、書評は著者の知るところとなった。

ぼくは彼のいわゆる教え子ではないけれども、やはり喜んでくださったのだろう。その後、初対面の人にぼくを紹介するたびにこの話をする。たいして面白い書評でもなかったと思うので、こちらとしては照れるばかりだが。

『コーラ……』を出したころ、先生は今のぼくよりも若かった。

宴は恵比寿のメキシコ料理店《エル・リンコン・デ・サム》で行われた。タクシーで帰宅し、ベッドに潜り込んだときには3時近かったと思う。