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2017年7月9日日曜日

地獄よりも暑い

7月5日(水)にはかねて予告のとおり、マドリード・コンプルテンセ大学の教授、ダマソ・ロペス=ガルシア博士に「ジェイムズ・ジョイスとフリオ・コルタサル」という題でご講演願った。ロペス=ガルシア博士は博学な人で、『ユリシーズ』と『石蹴り遊び』の似ている点、異なる点、意義の相同性などについて語った。

7月6日(木) メキシコ大使館にプラネータ社(出版社)のプロモーションのためのプレゼンテーションを聴きに。田村さと子さんや宇野和美さん、そしてきたむらさとしさんらの話を聴きに行った。

この日、大学で受け取ったのが、これ。

『文藝』秋号。ここに「戦後文学が読みたい」という1ページの文章を書いている。特集の一環だ。特集は堂々の読み応えだ。

7日(金)にはあるところに行ったのだが、その途中、公園に寄った。

鯉ってこうしてみると、意外に……

8日(土)は立教の口座。『ポーランドのボクサー』の表題作を読んだ。僕が気づかなかったある読みについての示唆をいただいた。皆さん、なかなか鋭いのである。


9日(日)溶けている。

2014年3月21日金曜日

1日がかりのお仕事

参加してきた。「東京外国語大学/ラモン・リュイ院 交流協定締結記念国際シンポジウム カタルーニャを多元的に考える――独立をめぐる想像力とリアリティ」@研究講義棟115教室

樺山紘一さんとエステル・バルベさんの基調講演に続く第1部《独立の想像力、政治の構想力》でぼくは「作家たちはバルセローナを目指す」としてラテンアメリカ文学とバルセローナの緊密な関係を話してきた。つまり、1960年代の〈ブーム〉を支えたのがバルセローナの出版社だったこと。その出版社の後押しでスターになったバルガス=リョサが「かつて作家になりたがる者たちはパリに行ったものだが、今ではバルセローナに行く」と言う事態が到来していること(パスカル・カザノヴァの言葉など引用しながら)。ボラーニョとか、ビジョーロとか、ソレールとか……で、ジョルディ・ソレールの『海の向こうのアカたち』と『熊の祭』を紹介してきた。

ジョルディ・ソレールは自身、共和国側について敗走し、メキシコに逃れたカタルーニャ人の孫だが、メキシコ人として育った「私」ソレールが、祖父の、そしてその弟の足跡をたどり、再構成するという形のオートフィクションを書いている。それが紹介した2冊。そこでのカタルーニャのあり方。

一緒に登壇した成田龍一さんは井上ひさしの『吉里吉里人』を紹介した。千年王国の解放思想が20世紀に実現を目指せば国民国家になる、と。

第2部《国民国家とそこに包摂された諸民族体(ナショナリティーズ)》が本格的なカタルーニャについてのお話。マリアノ・ラホイの強権的な態度に自決権を要求するものとしてカタルーニャの国民投票がある、と。


プーチンといいラホイといい安倍晋三といい、……ちょっと前のサルコジ、ベルルスコーニ、ブッシュ馬鹿息子、……大人になり切れない駄々っ子ばかりが政治を執っているなあ。

2010年5月31日月曜日

過去に驚かされる

 白水社エクス・リブリスのブログに掲載された、4月23日(金)の『野生の探偵たち』紹介。このスナップは、おそらく、御大N氏が、両端の2人に「君たち、これ、調べてないでしょ? だめだよ」と言ったあたり。


 ぼくはこの日、おおよそ、次のような話をした。

 私は訳者を代表して「あとがき」を書いた。あとがきでは、1、この小説が疑似ドキュメンタリーの手法を用いていること、2、さまざまなテクストとの関係で面白みを作り出している小説であること、という2点から『野生の探偵たち』の面白さを説明した。ここでは、同じ論点の違う例を出して話す。

 J・M・クッツェーの最新作、Summertime(2009)というのが、やはりインタビューを取り入れた疑似ドキュメンタリーの形式を取り込んでいる。この2つの例だけでこんなこと言うのは早計だが、ひょっとして、この形式は流行なのかも。一方で、この2つを読み比べるとそれぞれの特異さ、面白さがわかるかも。ざっとクッツェーの小説に目を通して思うことは、ボラーニョの方がはるかに奔放で放恣、謎が多く、魅力的だということ。

 インタビュー形式ということにとらわれなければ、疑似ドキュメンタリーと呼べそうな小説は他にもある。たとえばハビエル・セルカス『サラミスの兵士』。ここでは作者と同じ名の主人公が、ボラーニョと知り合いさえする。こうした傾向は興味深い。

 『野生の探偵たち』の面白さの第2点。他のテクストとの関係ということ。第一部でエルネスト・サン・エピファニオという人物が文学には異性愛文学と同性愛文学が存在する、という説を披露する箇所がある。詩は同性愛文学だと。そして、「詩の大海にはいくつかの潮流が見て取れる。ホモ、おかま、ヘンタイ、痴カマ、隠れホモ、フェアリー、ニンフ、オネエ。だが、いちばん大きな潮流はホモとおかまだ。たとえば、ウォルト・ホイットマンはホモ詩人だ。パブロ・ネルーダはおかま詩人だ」(上巻118ページ)等々、等々。

 これを読んで思い出されるのは、レイナルド・アレナスであり、セネル・パス(『苺とチョコレート』)だ。先人が実際のホモの分類を行ったのを受け、ボラーニョはここで、その分類をさらに推し進め、加えてそれを詩の存在様態に適用するという、実に野心的な試みを行っている。文学(他者のテクスト)によって文学(詩)を脱文学化(おかまなどのカウンター文化化)する、実に革命的試みだ。

 などと、このまとめではよく言いたいことがわからないかもしれないが、ともかく、ぼくはこんな話をした。まさかそれが写真に撮られているとは! 

 いや、写真に撮られていることくらい知っていたけど……

2010年5月23日日曜日

アルムニ、とラテン語読みしてはいけない

 土曜日は大学でホームカミングデイというものがあった。卒業生たちがカムホームする日だ。ぼくは卒業生としてではなく、ぼくの属するアラムナイ事業部というものの委員として、つまり、お迎えする側として、出た。出たといっても、会場に突っ立っているだけの話。アラムナイというのは、alumni、つまり生徒の集団だが、要するに同窓会みたいなものだ。一応、東京外語会という同窓会組織はあるのだけど、それとは別個、同窓生のネットワークを大学の事業に活かしていこうという部署。そこが、同窓会の総会とは別に、卒業生たちを母校に呼び寄せようというのが、ホームカミングデイ。結局のところ、こういう集まりに来る人は多くは同窓会活動に熱心な人と重複するのだけれども。でもともかく、別の催し。


 501人収容のホール、プロメテウスを含む多文化交流施設アゴラ・グローバルのお披露目の会みたいなものだ、今回は。

 散会後、職員の方にクレームをつけている人がいた。関わり合いになりたくなかったので、遠巻きにしていたのだが、聞こえてくることから判断するに、会の進行に不手際があったとか、学長の講演が予定の時間を超過したこととか、そんなことにケチをつけていたようだ。

 悪意に解すれば、クレーマーだ。この手の人物は、外語の卒業生でなくとも必ずいる。善意に解すれば、このような形でしか対象に愛情を表明できない人物がいる。

 今朝の『朝日新聞』に遠藤周作の未発表の小説草稿が遠藤周作文学館で確認されたという記事が出ていた(東京第14版、36面)。若いころのもので、フランスの日本人留学生がサド侯爵研究をする話と、対独レジスタンスで拷問を受ける人物の話が平行して語られているのだとか。「サディズムや拷問を通して、初期の遠藤文学のテーマである人間の『悪』を見つめている」と「同館学芸員の池田静香さん」は述べているそうだ。そうなのか?

 そういえば、以前、本屋で立ち読みした沼正三の自伝で、遠藤周作がマゾヒストたる沼の本性をたちどころに見抜き、なにやら怪しげな女性に紹介したというエピソードを読んだな、と思い出した。沼も彼の本性を見抜いて会いに行ったわけだが。

 『朝日』ではなく、こちらは『日経』に、『野生の探偵たち』の書評が掲載された。野谷文昭さん評。「ページを埋め尽くさんばかりに卑語・猥語を羅列する過剰さは、言葉の実験や遊びともなり、ユーモアを生むとともに詩的ですらある。しかもそこに多くの文学が参照されていることが厚みを与えると同時に、一種の昇華をもたらすのだ。メキシコから出発し、新旧大陸を股にかけ、学生運動弾圧事件やキューバの亡命作家の生涯さえも包摂しながら続く、危険で魅力的な旅の切なさと豊穣さに、ため息が出る」。

 うまいなあ、このまとめ。ため息が出る。いや、ありがたい。ちなみに、この方も外語のアラムナイ、のひとり。

2009年11月28日土曜日

脱稿!

脱肛、ではない、なんてくだらない冗談、前にも書いた。そのせいか、きょうは「脱稿」と打とうとしたら「脱肛」と出た。自らの愚かさに苦しめられている。

さて、脱稿だ。全26章、414ページ。3月から始めたので、9ヶ月。我ながらよくやったものだと思う。

今回は共訳なので(上の分量はぼくの担当分だけのこと)、これからゲラの段階で色々と調整をしなければならない。少し時間がかかる。ただでさえ600ページの大部なのだから。で、出版は4月になるとのこと。逆にいうと、訳を脱稿したからといって、仕事が終わったわけではない。これからも大変。でもまあ、ともかく、一番大変な訳が終わったのだ。嬉しい話じゃないか。最後はアンゴラやらルワンダやらリベリアにまで話が行っちゃうんだものな。苦労しましたよ。

さあ、この1ヶ月放っておいたあの仕事や、その他の雑事、日々の授業の後片付けなどが待っているのだった。

ちなみに、26日(木)5時限「表象文化とグローバリゼーション」はイタリアから吉本ばななや村上春樹の翻訳者ジョルジョ・アミトラーノさんをお招きしてお話しいただいた。ふむふむ。やっぱり翻訳者ってそうなのよね、と首肯されることばかり。

2009年11月22日日曜日

授業がないってすばらしい!

「授業がないってすばらしい!」なんてタイトルをつけると、何か後ろめたさを感じる。ええ、そりゃあ、大学の中心は授業ですから、それがないことを言祝いでいた日にゃあ、職務怠慢をなじられてもしかたありません。でもね、追い込みにかかっている翻訳を1章仕上げて送ったのだから、こう叫びたくもなります。

前回の「翻訳を1章仕上げて送付」の書き込みと比べて欲しい。金曜日になってすぐ、というか、木曜日の夜のことだった。3日後にもう1章仕上げて送っているのだ。

この章は28枚だった。1枚につき40字×30行でフォーマットしているので、つまり、1枚につき400字詰め3枚分になる。ということは、この3日間で訳した量は400字詰め84枚分だ! ほら、授業がないってすばらしいでしょ? こんなに仕事ができる。

追い込まれているから、訳したあとのチェックは少しだけおろそかになっているかもしれない。でもそれでも、3日で84枚はさすがに我ながら驚く。

3月にとりかかり始めたこの仕事、これまでに優に400字×1,000枚は超えているはず。薄い本なら2冊、いや3冊分にはなっているかも。それなのにまだ終わらないんだものな……たまには薄い本の翻訳、したいな……