昨日、5月4日(日)には
ラウラ・シタレラ、メルセデス・ハルフォン『詩人たちはフアナ・ビニョッシに会いに行く』(2019)を下高井戸シネマで観た。
フアナ・ビニョッシ(1937-2015)の遺品整理を託された若い世代の詩人メルセデス・ハルフォンが、その様子をシタレラたちの映画クルーに託し、かつ、その映画人たち撮影の様子を観察したもの。映画人から詩人への詩人から映画人への視線の交錯から疑似土キュメンたりーのような物語が立ち上がる作品。映画人は詩人の探求の作業に演出を入れようとして指図する。メルセデス(詩人)は記録を求め、ラウラ(映画人)はフィクションを求める。朗読によって集団性を目指す詩人に対し、端から集団的な創作体制である映画人たちはフアナの詩を朗読(音読)できずに銘々に黙読するだけ。
そこでみつけたある本(アレクサンドラ・コロンタイ『性的に解放された女の自伝』)の「私」を「私たち」と複数形にすべきだとのフアナの書き込みは、同時期に撮影していた『トレンケ・ラウケン』への道筋を開く。
フアナの詩は、映画内での若い詩人たちの朗読として、オフの声として、テクストとして提示される。詩を朗読する者のうちに三度ばかり読み直す人物がひとりいる。三度目に読むときには彼には明らかにある種の気分の昂揚が見られる。詩の読み方が明らかに最初とは異なっているのだ。
スペイン語の詩の朗読は、伝統的にはアクセントのある音節を強調し、普段より長めに発音するものだ。E—sta no—che, pue—do escribi—r el ve—rso má—s tri—ste del mu—ndo という具合だ。パブロ・ネルーダなどはこうした読み方を保持していた。近年失われてしまったこうした調子に、少し近づいているということだ。これが詩的昂揚。
この朗読者がこの昂揚を獲得する瞬間が、実に感動的であった。
写真はとある街角の風景。