昨日、読み終えたのは以下の小説:
河内美穂『海を渡り、そしてまた海を渡った』(現代書館)
著者は中国研究者でこれまでに研究者としての著書もあるのだが、今回は、小説。
いわゆる中国残留孤児(さすがに現在では「孤児」は使わないか?)三代にわたる女性の話。三人がそれぞれ自分の人生と家族について二度ずつ語る形式。
王春連(ワンチュンリェン)は戦争で満州に取り残され、養父母に育てられた。自身の意志とは無関係に連れ添うことになった蒼東海(ツァントンハイ)とのあいだに三人の子をもうけたが、文革の時期に「日本鬼子」とされ迫害を受けた。その後、例の「残留孤児」帰国計画により日本に「帰国」。だいぶ年上の夫は、しかし、その直前に病死。本人は今では老人施設に入っている。
春連の娘が蒼紅梅(ツァンホンメイ)。知識欲旺盛で中国にいる頃は医者になりたいとも思っていたが、それもかなわず、母とともに日本に「帰国」後も学校でいじめなどに遭い、夜間学校を出て後、資格を取って今は医療機関で中国人たちの通訳をしている。一緒に帰国した夫の楊立軍(ヤンリージュン)は少数民族エベンキの出で、日本には馴染まず、中国に戻る。
このふたりの末娘の楊柳(ヤンリュウ)が三人目の語り手。日本人の翔太と結婚しいつきという子ももうけている。小説の終章では彼女が家族で父を訪ねていく。だから「そしてまた海を渡った」なのだろう。
女三代の物語を、それぞれの代の人物に焦点化して語るというのは、いってみればオーソドックスな形式だろう。たとえばイサベル・アジェンデ『精霊たちの家』。これは初代のクラーラのノートを三代目のアルバが読んで辛い時代を耐えるという話題から始まる話であった。つまり書き継がれ、書き換えられる物語だ。それに対してこの『海を渡り、そしてまた海を渡った』の女たちはまともに教育を受けられなかった者たちであり、つまりは『精霊たちの家』の対極にある。
その意味であくまでも興味深いのは二代目の蒼紅梅だ。無医村無文字の文化状況で、派遣された医師を通じて医学に興味を抱き、文字を覚え、知識欲を掻き立てられ、医師への道は開けることはなかったけれども、言語を変え、医療の現場で二言語の橋渡しとして生きる彼女と、結局のところ日本社会に溶けこむことの出来なかった夫・楊立軍のつがいのあり方がいろいろな意味でこの小説の構造を支えていると言えそうだ。
表題のもと。