2015年1月6日火曜日

辞書の意味に鑑み考える

比較的近くの〈やなか珈琲店〉で焙煎を待つ(ここは煎り方も指定できる)間、コーヒーを飲みながら、読書。

冬休み、翻訳マシーンとして働き、少し目処が立ってきたところで、明日からは授業も始まるので、そのための本なども読まなければならない。授業に向けて、写真に写ったこの本を読んでいるところ。

元来がこの翻訳小説の訳者の日本語運用能力というか、言語感覚というか、そうしたものに信頼を置いていない(その人の名誉のために言うと、ぼくが信頼を置いている人など、わずかだ。つまりこの人を悪く思っているのでなく、並と見なしているということ。あくまでも言語運用に関して。人間性はまた別問題)。ましてや原語がスペイン語となると厳しめにもなるだろう。しかしなあ……

「女の鏡」(91ページ)
「一族の鏡」(197ページ)

などと二度も出てくると萎えるなあ。やれやれ。

一度なら書き損じ、変換ミス、校正漏れなどと思って見過ごすこともできた。本には必ずと言っていいほどこうしたミスが手つかずで残っている。これだけ厚い作品となれば校正だって大変だ。でも、二度繰り返されるならそれは確信犯だ。「鏡」(物体の像を左右反転して反射する光学装置/交合と並んで、人を増殖させるがために忌まわしい、とボルヘスが書いた装置)と「鑑」(手本、例)の違いを、たぶんこの人は知らないのだ。おかしいなあ。「鑑みる」という動詞は使っているのだけどなあ。ぼくなど翻訳の際にはスペイン語の辞書と同じくらいの頻度で日本語の辞書を引くのだけどな。この人は引かないのかな? 

(そういえば、「如何なく発揮」〔39〕なんてのもあった。いかんな。遺憾が残ってしまうじゃないか〔その後、「寸分漏らさず」なんて変な表現まで出てきやがったぜ。やれやれ〕〕

前に書いたことがあるかもしれない。最初の個人訳になる翻訳、カルペンティエールの『春の祭典』のとき、「あまっさえ」と書いたら、「あまつさえ」が正しいと直されたことがある。辞書を引いたら、なるほど、「あまつさえ」だった。編集者が教えてくださるには、でも、中には間違っていたとしても、この誤法こそが私の言語なので、そのままでお願いします、などとおっしゃる方もいるとか。ぼくはとてもではないがそんな傲慢な挙措に及ぶ気になれない。だから、以後、かなり頻繁に辞書を引くようになった。日本語の辞書だ。

言語はみんなのものだ。つまり言語は他者のものだ。他者のものでありながら同時に、言語は個人的なものでもある。だから厄介なのだ。でも、テクニカルな話をすれば、言語のどの局面がみんなのもので、どの局面が個人的な、自分だけのものかはわかりそうなものだ。「あまつさえ」を「あまっさえ」と書くのはいささかも個性などではない。単に訓練が足りなかっただけだ。そこで我を通すのは、歴史修正主義のようなものだ。知性に対する反乱だ。ないことをあると言いくるめるファシスト政治家のようなものだ。

……おっと、話しがズレた(なぜだろう? 人間性の問題?)。


ともかく、こうした誤法を見ると、やはり信頼は置けない日本語話者だなと思うのであった。

昨日、ツイッターやFBのタイムラインで流れてきたのは、翻訳家の岩本正恵さんが昨年大晦日に亡くなっていたというニュース。岩本さんなどは、その点、いい仕事をした人だった、との印象が残る。ぼくより1年年少だ。悲しいな。