2010年10月3日日曜日

まだまだ続くサンデル先生人気

先日書いたように、アクセスが一番多いのはサンデル先生の名を出した記事だったのだ。今日のTV欄にも先生来日時の東大での講義の様子を番組にしたものがあると書いてあった。しかしこれは、先週の日曜の夜に放送したものを少し編集したものだった。確認する限りそう見受けられた。

ところで、この人気、何が根底にあるのだろう? サンデル自身は、政治から哲学的基盤が抜け落ちがちになり(経済主導になり)、経済は脱政治化している現況(グローバリゼーション)への反省として政治哲学の復権を考えているような節が見られる。それはおおいに慶賀すべきこと。どんどんやっとくれ。受け取る側、つまり日本の読者や、こうした催しに駆けつける人は、何を求めているのだろう? イントロダクションとして流された参加者たちの発言は、大学の授業としてこうした対話型のものが成り立つことへの驚きを口にしているものが多いように思った。そうした意見が多くなかったとしても、NHKはそう思わせるような編集をしていた。

確認しておかなければならないことがある。ハーヴァード側(あるいはアメリカ合衆国の大学全般の側)の事情と日本の大学の事情だ。

ハーヴァード側の事情:あれがマイケル・サンデルの開く「正義」の授業の全貌ではないということ。あの講義の授業の他にリーディング・アサインメントなどがあって、受講者たちは事前にリーダーという資料集の当該の箇所を読んでくることが義務づけられている(それを他の時間にチェックされている)こと。議論の根底にあるテクストを共通の基盤として持っているのだ。講義とはつまり、学生たちの読書の理解を助けるもの。

日本の事情:少なくともあの東大での講義に集まった者のうち、学生たちは、例外的な存在だと考えた方がいいということ。彼らにあらかじめリーダーが与えられていたかどうかは知らない。たぶん、みんな、あるいは多くが、サンデルの本は読んでいる、でもこの講義のために指定されたテクストはなかったのだろう。内容から判断するにそう予想される。ともかく、放送に乗る発言をした者たちのうち学生と思われる人々は、例外的な存在だ。帰国子女らしい者と、そうではなく勉強によって英語力を獲得したのだろうが、だとすればかなりできる方だと言っていい者を合わせた割合が多い(全員が東大生だとも思わないが)。そして、そういう人たちは、確かに発言するものなのだ。

次なる事情。日本の大学のほとんどは、ひとつの授業が週1回きりで、1回90分(がほとんど。今でも東大の本郷は100分か110分のはずだが)。それを学生たちは週に十数コマも取るものだから、すべての授業で毎回何ページも何十ページも指定して読ませると、とても体が持たない。いきおい、個々の授業では、その学にとって重要なテクストを学生に読ませるのでなく、それを教師が解説だけする、という形になってしまう。場合によっては、重要なテクストを解説した教科書を解説する、という授業になることもある。

少なくともぼくが学生だったころの大学の授業は、そんな感じだった(だからぼくはある日、これならほとんどの授業は、サボって自分で本を読んだ方が話が早い、と思った)。今もこの事情はそれほど変わっていないとは思う。でも、最近では、同業者のシラバスなどを読んでいると、読ませたり議論させたり、といったことを取り入れる先生たちは少なからずいる。大勢の面前での議論は苦手だけど、グループ単位でディスカッションさせたり、あるいは議論ではなく発表をさせたりすると、学生たちも下手なりにやってはくれる。問題は、だから、それをすべての授業でやると学生たちの体がもたないということだ。

本当は、講義一辺倒の授業を補うのが演習とかゼミとかいうものなのかもしれないのだけど、……うむ、この話をすると、ますます事情は複雑になってくるのだろうな。そんなことをしている時間は今はなく、ぼくはその自分のつまらないかもしれない授業の準備に粛々と取りかからねば……