2010年7月31日土曜日

酒と採点の合間に少しだけ読書

前回告知の講演会、授業時間を過ぎ、7時くらいまで続いたが、盛況であった。ある小説を映画化するに際して、何が切り捨てられるか、その切り捨てられたところに原作のどれだけの面白さがあるか、といったことを具体的に考えさせられるお話であった。たとえば小説『予告された殺人の記録』には殺されたサンティアーゴ・ナサールを始めとしてアラブ人社会が前提されているのだが、それが映画では隠蔽されていることなど。久しぶりに観て驚いたのだが、そもそもナサールNazaharという苗字自体がNasarと書き換えられている。

金曜日はゼミの学生たちと納会。その間に注文していた本が届いた。

小谷充『市川崑のタイポグラフィ——「犬神家の一族」の明朝体研究』(水曜社、2010)

タイトルを読むだけでこれがいかに特異な本かわかるというものだ。「デザイン言語による映画評論の可能性を見出す」(16ページ)ことを目指した野心作。

 映画冒頭、犬神佐兵衛の臨終シーンから暗転、悲しげな旋律にのせて禍々しいタイトルが表示される。驚きの瞬間はその直後のことだった。あとに続くスタッフや出演者のクレジットに観客たちは目を見開いたのである。縦横無尽に、ときに無骨に、あるときは風が吹き渡るように、巨大な明朝体がスクリーンを乱舞した。観客たちはたじろぎ、凛とした明朝体の美しさに気づくと、作品世界に否応なく引き込まれていった。(8ページ)

「観客」とは誰のことだ、という初歩的な疑問を叩きつけることさえできない。ぼくは『犬神家の一族』公開当時13歳で、地の果てのさらに向こうに住み、これを映画館で観る経験はしていない(ぼくより5歳年下の小谷も同様のはずだ)が、確かにしばらくしてTVで上映されたこの映画の冒頭に、ぼくは一種のショックを感じたはずなのだ。その「一種のショック」が「明朝体の美しさ」の認識だということには気づかなかったけれども。なるほど、いわれてみればあれはそういう経験だったのだと気づかせてくれて、その研究の正当性を知らしめる、実に優れた冒頭だ。

そしてこの市川崑の明朝体が、『新世紀エヴァンゲリオン』や『古畑任三郎』のオープニングのタイトルクレジットやCM、TV番組のテロップにも影響しているのだと説かれれば、これはもう読むしかないだろう。

ああ、その前に大量のレポートを優先的に読まなければならない自分が恨めしい。あまりにも恨めしいので、今日は元教え子と飲みに行こう。