2010年2月7日日曜日

テレビの力

昨日のリストは当面の仕事のものだが、そこにシラバスの記入、法政のシラバスの訂正、教科書の選定と注文、などという項目も抜けていた。

さて、昨夜の「着信御礼! ケータイ大喜利」。教え子が説明役で出ていたので見たわけだ。この番組自体は何度か見たことがあるにしても、今回はまたしても親心で。終わって「見たよ」などとメールを打ったはいいが、今朝になって返事が返ってきているのを確認して、少し反省した。ぼくとしてはまあいつもの調子だったわけだが、きっとぼく以外の個人的知り合いなどから「見たよ」の電話やメールが引きも切らせずにあったんだたろうなと思う。それに返事をしなければという気遣いをさせてしまったのは、いかにも申し訳ない。

何しろ、非常勤で出講をお願いしているので、数年前に彼女を担当したはずのたこ焼き村先生まで、ご自身のサイトの掲示板でつぶやいていたものな。彼女を応援する2チャンネルのスレッドは当然のことながら、こうして多数の反応が巻き起こるのだろうな。それがテレビの力。

ところで、たこ焼き村先生、あんなに忙しい人がテレビなんか見ていて大丈夫なのかな? と老婆心ながら思う。もちろん、他は一切見ないがあの番組だけは、という意気込みで「ケータイ大喜利」を見ているというのなら話は別だが、テレビなんて見なければもう少し仕事は楽になると思うと言ってあげたいな。

少なくとも、活字メディアを主たる表現場所として選んだ人間のうち、多産な人々には確実に共通する行動特性があって、それが仕事を主に朝することとテレビを見ないことだ。ましてや、加えて教育だの大学運営だのの仕事がある大学教員は、たこ焼き村先生なみに忙しい人は、テレビを断ちきるべきだと思うな。

かく言うぼくは、今、N響アワーでのマーラーなど聴きながらこれを書いているわけだが、それは別の話。

活字メディアを主たる表現場所として選んだ人間は、テレビなど見ない。昼食後、散歩に出て近所の書店を冷やかしながら、永江朗『書いて稼ぐ技術』(平凡社新書、2009)などを立ち読みした直後のぼくとしてはそう思う。

活字メディアがナショナリズム生成に果たした役割について論じて明快だったのがベネディクト・アンダーソンだが(そもそも、マクルーハンだって言っていたはずだが)、彼が分析したのは主に19世紀の話。テレビは活字以上にナショナルなメディアだ。ハイチの大地震のその後のことよりも、トヨタのリコール問題よりも何よりも、朝青龍の引退問題がトップに来るのがテレビのニュースの特性。日本の場合。相撲? 嫌いではないし、なにより相撲は日本のプロ・スポーツの中では奇跡的なまでに外国人に対して開かれた(その後、また閉じたのだが)存在だから(ところで、アマチュア相撲の指導者たちがばんばん海外に出向いていって指導し、普及活動をしていることを知っているか?)、朝青龍問題も確かに大きなものには違いないのだが、でもその取り上げ方が品格の有無といった次元である限りにおいて、やはりナショナルなニュースだろうな。

そんなわけで、教え子のテレビ出演の話に始まって、テレビは見るなという話に終わる。これが何よりも彼女に対して申し訳ない話か? 悪いね。でもだからといって君の仕事場が解体の危機に陥ることはないと思う。ぼくがなんと言おうと人はテレビを見続けるのだから。ぼくだって映画やスポーツやニュース番組くらいは見る。演劇やらコンサートやらも。「ケータイ大喜利」? うーん、どうだろう。君が4月から放送が月3回に増えると告知したばかりなのだけどね……


あ、そうそう。本屋を冷やかしたついでに、無印良品の店で買った電波時計アラームつき。欲しかった一品。そしてなんと! レジには現役の教え子の姿が……