2010年1月3日日曜日

詩って君のこと

ひとつ前に書いた仕事の関係で、

ロペ・デ・べーガ『フエンテ・オベフーナ』佐竹謙一訳『スペイン中世・黄金世紀文学選集7 バロック演劇名作集』岩根圀和・佐竹謙一訳(国書刊行会、1994)

グスターボ・アドルフォ・ベッケル『ベッケル詩集』山田眞史訳(彩流社、2009)

なんてのを改めて読んだり、あるいは

テオフィル・ゴーチエ『スペイン紀行』桑原隆行訳(法政大学出版会、2008)

なんてのに目を通したりしている。ゴーチエの翻訳におけるスペイン名の表記、どうにかならないかな、せめて翻訳のある『ラサリーリョ・デ・トルメス』くらいは正しく表記して欲しいな、などと、まあいつものことなので、いつものようにため息をついたりしている。

それだけによけいに『ベッケル詩集』のあとがき「解説――黒いつばめたちは帰ってくるだろう」が気になる。まあベッケルだから、その重要性を顕揚しようというのはわかる。なにしろベッケルなのだから。でも、「スペイン文学とラテン・アメリカ文学は、わが国でしばしばそうとらえられているような分離された文学ではなく、分かち難く結びついた文学、すなわちまったく同じ土壌から生え、そして同じ一本の木に咲く二つの花である」(260)というくだりは必要なのだろうか? ぼくは「同じ一本の木に咲く二つの花」どころかひとつの花だと思っているのだが、ともかく、「わが国でしばしばそうとらえられているような」という事実があるのだろうか? 少なくとも筆者が嘆くような範囲内でそんなことがあるのか? それがわからない。

若い連中の中には、ぼくの知る限り、スペインになど興味がないと豪語するラテンアメリカ文学研究者らしいのはいる。そしてもちろん、その逆も(これも結構大切)。でもそうした連中はまだ何者でもない連中であって、この人が目くじら立てるような問題ではないと思うのだけどな。

「ケベードとゴンゴラの二人を知らなければボルヘスの知りようもない」(262)そうそう。そうには違いないけど、でも、ダンテもチェスタトンもポーもマセドニオ・フェルナンデスもアルフォンソ・レイェスも……知らなければならいとも思うのよね。

「このようにして、スペインとラテン・アメリカ文学の詩人、作家たちは、幾世紀をも越えて、そして大西洋を越えて、大きな円を描いて手を結び、連なりあう」(263)うむ。これも正論。ただし、スペインの向こうにはギリシャだってローマだってフランスだってドイツだってイタリアだって控えていて、連なっているはずなんだけどな、とぼくなどは思う。

などと思いながら読み進めていたら、なるほど、この違和感はここに由来していたのかと気づく場所に行き当たったけど、それがどこであり、どんな問題があるのかは、ここで書いてもしょうがないから書かない。

問題はベッケルなのだ。ベッケルの詩集だ。詩を読めばいい。「詩って……そうだ、君のことさ」(36)

それから、ゴーチエが旅行した当時(1840)には既にシベーレス広場界隈はファッションの中心地であったという発見など。