2009年8月30日日曜日

政権の末期を見、仕事の限界を見る

投票に行くと、小雨が降っていたというのに、いつもよりは明らかに投票者の数が多く、巷間伝えられているとおりの結果が出来しようとしているのだろうなと実感。

投票に行く前にちょうどいい区切りがついた翻訳原稿を送付。5日ちょっとで四百字詰め原稿用紙に換算して60枚弱。この調子で行くとぼく自身の書く原稿と併せて月三百枚ちょっとのペースになるのだな、と感慨深い。もっとも、このペースがコンスタントに続くという保証はないのだが。しかも、今やっている仕事は、このペースで行ってもなお追いつかないかもしれないのだが。

現実的な話はともかくとして、数字の話。月三百枚の話。福田和也には『ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法』という本があり、ぼくは不覚にもそれを読んでしまったことがあるのだけど、まあ中身はともかく、この時期福田は月に三百枚ばかりの原稿を書いていたのだそうだ。ただしこの本は、まさに「三百枚」くらいの分量の本ではあるが、改行も多い。彼の仕事がそんなものばかりだとはいわないが、文章の質によっては、そのように水増しされたものもあるだろう。それでも三百枚は驚異的な数字だ。

その後新聞で読んだのだったか、重松清が月六百枚くらいの原稿をこなしていると紹介されているのを目にしたことがある。六百枚。上には上がいるものだ。重松の場合、小説の占める割合も多いだろう。小説だろうがその他のものであろうが、何百というのはすごいなと思う。ずっと前、筒井康隆が1日小説2枚くらい書いて過ごしたいものだと書いたのを読んだ記憶がある。それならば月60枚。重松の十分の一だ。筒井は1日2枚より多く書かざるをえなかったから、仕事はそれくらいで済ませたいと書いたのだろうが、60枚でも充分多いと思うな。

以前、一週間で百枚強の分量を書いたことがある。その時の原稿はしかるべき場所に渡されたまま活字になっていない。昨年は後期授業中に五百枚ばかりの翻訳を終わらせた。それはいろいろな行き違いから本になっていない。ぼくの場合、こういう例があるから、働いてもそれに見合うだけの(そう自覚されるだけの)業績に結びついていないのだろう。「三百枚」だ「六百枚」だは、そのうちの何パーセントが実際の活字になるかも考慮に入れなければ話せない数字だ。

月三百枚。――授業のない時期だから可能な数字には違いないが、でもここ数週間、ぼくは仕事しながら、まだ自分が生産性をフルに発揮していないと感じていることも事実。限界はもっと上にあるのかもしれない。でも一方で、そんなに仕事をしていると体が保たないだろうなという気持ちもある。ぼくは生来、怠惰な人間だ。加えて目もしょぼしょぼだし、肩や背中は鉄板を入れたようにカチカチだ。