ほんとうに、なんというか、我ながら愚かな性格だと思うが、何度でも言ってやろう。出くわすたびに言ってやろう。
デイヴィッド・ダムロッシュ『世界文学とは何か?』秋草、奥、桐山、小松、平塚、山辺訳(国書刊行会、2011)
なんて本を読んでいる。「世界文学とは、把握しがたい無数の正典のことではなく、流通や読みのモードだ」と、そしてまた「作品は二重のプロセスを経て世界文学の仲間入りをする。第一に、文学として読まれることで。第二に、発祥地の言語と文化を越えてさらに広い世界へと流通することで」(17-18。下線は原文の傍点)と説くダムロッシュの立場は明快で、惹きつけられる。翻訳を通じて作品は世界文学になるというが、その翻訳とは「つねにフェルナンド・オルティスが一九四〇年に「文化変容」(トランスクルトゥラシオン)と表現したものにかかわっている」(46 ( )内はルビ)と明言するところなども共感が持てるじゃないか。ベルナルディーノ・デ・サアグンやリゴベルタ・メンチュのテクストも扱っていることだし、ぼくが読まなくて誰が読む?……というわけで読んでいる。
第一章は『ギルガメッシュ叙事詩』の発見とその伝達を巡るすてきなストーリーを扱っている。世界文学とは流通のモードなのだから、これを冒頭に持ってくるなんざ心憎いじゃないか。楔形文字の書きつけられた石板の発見を、その名も『デイリー・テレグラフ』という新聞が伝える、というところなど、おお、これはもう、これこそメディア論じゃないか、とはらはらさせられる。実に面白い読み物なのだ、これは。
ところが!……
こんなことが書いてあると、その興奮も極度に冷めてしまう:「いつ何時でも調査に反対し、古文書の発見や移動を阻止してやろうと待ち構えているにも関わらず」……
だ・か・ら、……「にも関わらず」は誤字なのだよ。何度でも言おう。見つけるたびに言ってやろう。「にも関わらず」は誤字だ。ぼくが愛用している『大辞林』は「にも拘わらず」のみを掲載している。『日本国語大辞典』は「にも拘わらず、にも係わらず」ふたつを掲載している。いずれにも「にも関わらず」はない。そもそも最近では「にもかかわらず」が主流だろう? と、そのことはまったく前に書いたとおりなのだ。世の翻訳家たちは日本語の辞書を引かないのかな? ぼくはひっきりなしに引くことになるのだけどな。それでもいろいろと間違えるというのに。
先日、ダンティカの『骨狩りのとき』を読んでいたら、「にも拘わらず」との表記を久しぶりに見て、妙に感動してしまったことがある。
ま、そんなことにも関わらず、『世界文学とは何か?』読み応えはある。