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2025年6月18日水曜日

青空はビルに反射し……

試写で観てきた(リンク)。(このブログのタイトルと映画の内容は無関係)


ロレーナ・パディージャ監督・脚本『マルティネス』フランシスコ・レジェス、ウンベルト・ブスト、マルタ・クラウディア・モレノ他、メキシコ、2023


グワダラハラとおぼしきメキシコの都市で30年にわたって働いてきたチリ人のマルティネス(レジェス)は、偏屈な独り暮らし。仕事場にはビシッとダブルブレストのスーツを着て行くし、起きたらすぐに腕立て伏せをするような人物だが、会社からは定年退職を勧められ、後任のパブロ(ブスト)に引き継ぎ、研修するように言われる。

 

一方、古めかしい感じの残るアパートでは、真下の部屋の住人の止まることのないTVの大音量に苛まれている。じつはその住人アマリアは半年ばかり前に孤独死していたことが発覚する。このアマリアの遺品の中に自分へのプレゼントが入っていたことから、粗大ごみ処理されるはずだった残りの遺品を引き受け、小物やクロスなどを殺風景な部屋に飾り始める。残されたテープを聞いたり、彼女のスケジュール表やToDoリストに書かれていたこと(プラネタリウムに行く、など)を代わりに実行に移す。女性雑誌 Vanidades を読み染み取りの方法を知ったり料理を作ったりするようになる。

 

ちょっとしたことからパブロや昔からの同僚コンチータ(モレーノ)に恋人の存在を勘ぐられたマルティネスは、プラネタリウムで仕込んだ情報を利用してすてきな話をでっち上げ、同僚たちの感動を誘う。


そこから少しずつ同僚と打ち解けていく。


偏屈な老人が心を許していく物語はこれまでにもいくつかあったが、死んだ隣人の遺品を引き受けることによって人格が軟化していくというのは面白い。ガーリーなものは癒やしなのである。いつの間にかエプロンなどを着けるようになっている初老の頑固者がかわいらしい。


TVも仕事場のPCもブラウン管の時代で、スキャナはかろうじて既に存在している、という頃の時代設定。テープレコーダーは埃を払わなければならない。そんな時代にチリ出身でメキシコで30年働いている人物という設定だと、どうしてもピノチェトのクーデタや軍政を期に移ってきたという背景を想像したくなる。映画内では特に説明はされていないけど、そのくらいの想像は働かせたくなる。


これはパディージャの初監督作品とのこと。


(ブログのタイトルはこの写真のこと)



2025年6月2日月曜日

一つ家に泣聲まじる砧かな(子規)

変則カレンダーで今日は授業のない月曜日。試写に呼ばれて映画美学学校映写室での試写に行ってきた。


宇和川輝監督『ユリシーズ』日本、スペイン、2024


3つの場所で展開する3つの物語。いや、物語がそこで展開するのではない。そこにいる人びとがそれぞれに物語を抱えているという形。


まず最初はマドリード(らしい)のアパートに暮らす母と子の会話から始まる。会話はロシア語でなされる。父親がどこかに出稼ぎに行っているらしい。やがてクリスマスがやって来て、母子はクリスマス・ツリーの装飾を始める。男の子が3Dのゴーグルで何かを見ながらはしゃいでいる。ロシア語で話していた彼が不思議とスペイン語らしいイントネーションに変化していく。ときおり、 “Soy viejo italiano” などとはっきりとしたスペイン語のセリフを発する。ゴーグル内で展開する物語がきっとスペイン語によるものなのだ。ここで観客ははじめて、ここがロシアではないのかもしれないと疑いを抱くことになる。


母子は別の家にお呼ばれしているのか、男ふたり女ひとりのスペイン語話者に交じってスペイン語で会話している。確かにここはスペインなのだと観客は確信することになる。男ふたりはゲイのカップルなのか、ガルデルの歌をかけるとふたりで踊り出す。

 ……

ふたつめの場所はサン・セバスティアン(なのか?)の海岸。若い女性ふたりが一方の恋人(なのか?)に関する愚痴を言っている。そこに現れた東洋人(たぶん日本人)は無言でふたりに近づき、そのうちのひとりと歩き出す。無言で。


どこかの建物の玄関先のような場所で、男は英語で子供のころの父との思い出を語る。


男はイズミというのだろう、今度は雨の中を走る車に乗っているらしい。そこでそう呼ばれている。女性ふたり(ともうひとり男性がいたかも?)が彼を滞在先まで送っていくところらしい。

 ……

サン・セバスティアンでのパートが終わると、夏の日本の(岡山らしい)田舎町に舞台は移る。何の説明もないのに、場面が切り替わった瞬間にそこが日本だとわかるのは、田圃と蝉の鳴き声のおかげなのだろうか? 夫を亡くして一人暮らしの老女が、その夫の墓参りに来た孫たち(ひとりは監督・宇和川本人)と盆を過ごす。亡き夫/祖父の思い出を語ったり、玄関先で火をおこしながら祖父の到来の声を聞いたりする。ここでも雨の中を車が走る。


憶えている細部をすべて書き写すことはしないが、そこにいる者たちのひとりひとりが抱える物語だけでなく、不在にも等しい存在も感じられる。そもそも最後は日本のお盆の話で、死者を迎える話でもあるのだから見えない者がいてもいい。多言語状況の中でまったく理解できないがゆえに不在に等しい者がいてもいい。



老舗名曲喫茶ライオン。久しぶり。



2025年5月6日火曜日

思い出にとらわれる

テレビが邪魔になって受像機を手放し、数年間、観ずにいた。テレビ番組で必要なものはNHK+ や TVer で観た。DVDやブルーレイを観るときはプロジェクターを使っていた。


が、プロジェクターはそのために常設でないスクリーンを本棚の前に掛けたりするなどの準備が必要で、億劫だ。配信はPCのモニター(27インチ)で観ればいいが、ディスクはそのうち観なくなった。そこで考えた打開策が、これ。



ポータブルTV。(写真は何週か前のクラシック音楽館の模様)


ふだんは台の上にしまい、必要なときだけテーブルに載せて観る。ディスクを観るためのセットアップもプロジェクターよりははるかに楽なのでいい。


で、今日、古いTVに使っていたHDDレコーダーに録画したものをチェックしていたら、けっこう色々と録画している。映画や、友人の出た番組、資料になりそうないくつかの教養番組・ドキュメンタリーなどだ。僕は以前、BBCが製作しNHKが放送した2002年のベネズエラのクーデタ未遂事件の検証番組を、録画せずにただ観るだけ観て後から後悔したという経験から、いくつかの番組を録っておいたようだ。


そのなかに、かつてNHKBS2で放送されていたBSブックレビューで佐々木敦が『野生の探偵たち』を紹介したものの録画があった。つい見直してしまった。懐かしさにしばし茫然とした。


ところで、いまでは小さなHDDでもTV番組を録画できるのだが、この昔の、DVDプレーヤーを兼ねるHDDレコーダーのデータ、どうにかしてそんなHDDに移行できないだろうか? データの移行と、それを終えた後の昔のプレーヤーの処分が頭の痛い問題なのである。

2025年5月5日月曜日

映画週間第二弾あるいは詩的昂揚について

昨日、5月4日(日)には


ラウラ・シタレラ、メルセデス・ハルフォン『詩人たちはフアナ・ビニョッシに会いに行く』(2019を下高井戸シネマで観た。


フアナ・ビニョッシ(1937-2015)の遺品整理を託された若い世代の詩人メルセデス・ハルフォンが、その様子をシタレラたちの映画クルーに託し、かつ、その映画人たち撮影の様子を観察したもの。映画人から詩人への詩人から映画人への視線の交錯から疑似土キュメンたりーのような物語が立ち上がる作品。映画人は詩人の探求の作業に演出を入れようとして指図する。メルセデス(詩人)は記録を求め、ラウラ(映画人)はフィクションを求める。朗読によって集団性を目指す詩人に対し、端から集団的な創作体制である映画人たちはフアナの詩を朗読(音読)できずに銘々に黙読するだけ。


そこでみつけたある本(アレクサンドラ・コロンタイ『性的に解放された女の自伝』)の「私」を「私たち」と複数形にすべきだとのフアナの書き込みは、同時期に撮影していた『トレンケ・ラウケン』への道筋を開く。


フアナの詩は、映画内での若い詩人たちの朗読として、オフの声として、テクストとして提示される。詩を朗読する者のうちに三度ばかり読み直す人物がひとりいる。三度目に読むときには彼には明らかにある種の気分の昂揚が見られる。詩の読み方が明らかに最初とは異なっているのだ。


スペイン語の詩の朗読は、伝統的にはアクセントのある音節を強調し、普段より長めに発音するものだ。E—sta no—che, pue—do escribi—r el ve—rso má—s tri—ste del mu—ndo という具合だ。パブロ・ネルーダなどはこうした読み方を保持していた。近年失われてしまったこうした調子に、少し近づいているということだ。これが詩的昂揚。


この朗読者がこの昂揚を獲得する瞬間が、実に感動的であった。


写真はとある街角の風景。

2025年5月3日土曜日

映画週間

 ゴールデンウィークという語が映画産業の作った語であることは良く知られているところ。今でもこの連休には観たい映画が多くて困る。

4月29日には:

ウカマウの映画祭@K’s Cinemaでホルヘ・サンヒネス『女性ゲリラ、フアナの闘い――ボリビア独立秘史』メルセデス・ピティほか、2016

 独立後のフアナ・アスルドゥイの家にボリーバルとアントニオ・ホセ・デ・スクレ、ホセ・ミゲル・ランサがやって来て、フアナの半生を語らせるという内容。夫のマヌエル・パディージャとともに独立戦争に参加、中佐にまでなる。夫は裏切られ、殺される。子供4人はマラリアなどで死ぬ。最後にひとりだけ残る。独立後も地方の有力者は単に新しい体制に従順にしているだけで、先住民問題などは解決していないことを別れ際のボリーバルらに強調する。


 ウカマウもこうした歴史物語を作るのだ。ロングショットや長回しの多用というウカマウの自家薬籠中のものとした手法で、見飽きない絵作りをしている。


 ちなみに、このフアナ・アスルドゥィのことをカルペンティエールは前置詞つきで、フアナ・・アスルドゥィと表記しているものだから、僕もついそう発音したくなる。


今日、53日は:


ラウラ・シタレラ『オステンデ』ラウラ・パレーデス他、アルゼンチン、2011


 先日ここで報告したように、『トレンケ・ラウケン』がひどく面白かったので、その作品の公開を機に展開されているラウラ・シタレラ作品特集で。今日は渋谷のユーロスペースで観た。


 ラジオのクイズ番組でオステンデの町への旅行が当たったラウラが、そのホテルで出会った中年男性ひとりと若い女性ふたりの関係に謎を感じる。週末を利用して合流した恋人フランシスコと合流するために部屋、というか棟を替えたラウラだが、その3人組も新たな棟に姿を現し、謎は深まる。その3人の関係を色々と推理したラウラはフランシスコに話すのだが、どれも決定打に欠ける。


 時間切れでふたりはブエノスアイレスに戻っていく。その後の3人の様子をカメラはロングショットで捉える。そこでショッキングなラストが訪れる。


 そこからエンドクレジット。そしてクレジットが終わっても暮れ行く海岸が映される。潮騒が鳴り響く。最後に暗くなって何も見えなくなり、映画は終わる。


 アルゼンチンだからというわけではないが、おのれの推理におぼれる刑事を描いたボルヘスの「死とコンパス」を思い出す。あるいはハビエル・マリーアスの『女が眠る時』。


 謎の3人の関係は最後まで明らかにされない。ただショッキングな最後が示されるだけ。被写界深度を利用したボケを多用し、またラウラの窃視が電話や第3者の介入によって切断されることによって、謎の3人の行動の肝心なところが見えない。それが謎を増し、観客もおのれの推理におぼれていくことになる。



写真は先日、若い友人たちと行った八丁堀のビストロ。美味であった。



2025年4月2日水曜日

映画は熱意に支えられている

『トレンケ・ラウケン』試写。ラウラ・シタレラ監督。2022年、アルゼンチン、ドイツ

 二部構成で4時間20分ほど。が、
ふたつのパートがそれぞれ別のジャンルといえる作りなので、飽きない。

 第一部は失踪した植物学者ラウラを探す彼女の恋人ラファエルとエセキエルのロードムーヴィーにも見えるミステリー。ラウラはトレンケ・ラウケンの町で期間限定のプロジェクトで植物調査にきているのだが、その期間が終わっても帰ってこず、それを訝しんだ恋人が、現地で彼女の運転手のような役目を務めていたエセキエルと、いろいろな証言を集めて回る話。ラウラは図書館で借りた本に秘密に隠されていた手紙を見つけ、芋づる式にとある秘められた恋の物語を作っていく。

 第二部は一転して怪奇幻想譚といった雰囲気。実はラウラの失踪は、第一部で語られた些細な事件にかかわっていることが明かされていく仕組み。いずれの部も最後はパンパを足で歩く女性の話になる。

 とあるスペイン語圏の映画を研究する大学院生が個人で買い付け、昨年末、下高井戸シネマで四日間限定の公開した(僕はインフルエンザに罹り行けずじまい)のが好評で、このたび、配給会社がつき(ユーロスペース)、公開されるとのこと。めでたい。

 ついでにラウラ・シタレラ監督旧作三本も公開とのこと。なおめでたい。



写真は友人の帰省土産。ボンタンアメの会社のボンタンアメ以外の主力商品。