そんなわけで、昨日はノーベル文学賞の発表微だったのだ。パトリック・モディアノに決まったのだ。特にこうした賞に興味はないのだが、何人かラテンアメリカの作家たちがノミネートされているという情報があり、その人たちが受賞したらコメントを、と言われて準備したりしているので、結果発表を注視しないではいられない。
で、そうした職業上の興味以上に、他部門のノーベル賞にだって興味ないのだが、今回の物理学賞にはとても複雑な思いを抱かずにはいられない。
1. たいていの国のメディアはアメリカ合衆国の市民権を獲得している中村修二をアメリカ人としているのだが、日本のメディアはあくまでも日本人扱い。まあこれはいつものことだ。
2. 青色発光ダイオードを実用化したこの人は、勤務先の日亜化学に発明の対価を求めて訴訟を起こし、勝訴、控訴されると和解に持ち込んだ。そして(順番は前後するかもしれないけれど)UCサンタバーバラに招かれて行った。この辺の経緯は、リアルタイムでいろいろと報じられていたはずだ。
3.それなのにメディアはそのことを忘れたかのように、「日本には研究の自由がない」という中村さんの言葉を再生産する。彼の言う「研究の自由」は、いささか複雑な話だと思う。こんな証言もあることだし。一方で、今年8月、会社員の取得した特許は会社のものに属するという法律が作られたことも忘れてしまっているかのようだ。中村さんは逆手に利用されて、こうした悪法のきっかけを作ってしまった人なのだ。
4.その中村さん、どこかのインタビューに答え、「基礎研究にだけ与えられる賞だと思っていたので、応用科学である私にいただけて嬉しい」と発言していた。これは、ノーベル賞にとっても大きな一歩なのかもしれない。ますます基礎研究の肩身が狭くなるのかもしれない。他のふたり、国籍の点でも日本人であるふたりの行った基礎研究にこそ注目が注がれた方がいいと思うのだ、大学人としては。そのことを大切に思う人が言う「日本には研究の自由がない」と中村さんの発話とは、ちょっと違うことなのだけどな。それを認識しなければ。
で、ともかく、そんな中村さんを迎え入れたUCサンタバーバラのような体制ができる環境から、日本の大学はますます遠ざかっていくのだろうな、というのが悲しい直感。
今日はこれから大阪だ。