デヴィド・L・ユーリン『それでも、読書をやめない理由』井上里訳(柏書房)
原題は The Lost Art of Reading: Why Books Matter in a Distracted Time 読書という失われた技法:読書に集中できないのはなぜ?
息子がフィツジェラルドを読む宿題に悩まされたところから始まり、気になって『グレート・ギャツビー』の再読を始め、そしてエピローグでそれを読み終える、という外枠の中に、本を読むとはどういうことか、なぜ現代人は本を読めないのか、といった考察を進める内容。読むことにまつわるさまざまな問題を、博覧強記の引用で説明している。
基本姿勢は、こういうこと。「読者は本と一体化する」(129)。つまり本を読むことは没入することだ、とする姿勢。この場合の読書は主に黙読。このことも実はかなり重要だが、ともかく、黙読を、つまり、没入を邪魔するのがインターネットやらそれにまつわる情報、電子ディバイスなどであり、しかし同時に、電子ディバイスが読書を存続させてもいるという皮肉もまた、考察されている。示唆に富む文学論であり、示唆に富む読書論だ。
でもあくまでも、こうした本を読むのが楽しいのは、そこに書き手の読書のスタイルが露わにならざるをえないからだ。たとえば、どのように書き込みをしているか、どのようにコメントをつけていくか、といった、いわば手の内が明かされる。とりわけ、この本の出発点となっている、どうして読書に集中できないか、という問題点は、逆に、どのように本に集中していたか、という話と隣り合わせで出てきて、何やら興趣を感じないではいられない。
大人になってからは、ロスの『ゴースト・ライター』に出てくるE・I・ロノフと同じく、読書をするのはもっぱら夜が多かった。レイと子どもたちが寝てから、百ページかそこら読むのだ。ところが最近では、パソコンの前で数時間過ごしてからでないと本を手に取らなくなった。一段落ほど読むと、すぐに気がそれて心がさまよい始める。すると、わたしは本を置いてメールをチェックし、ネットサーフィンをし、家の中をうろついてからようやく本にもどるのだ。あるいは、そうしたい気持を抑え、無理にじっとして本を読むこともあるが、結局いつものパターンに身をまかせてしまう。(47ページ)
あはは。同じだ。で、2006年に高速回線につないだところから始まって、2008年の大統領選挙ではすっかりネットがもたらす情報に埋もれ、こんなクセがついたというのだ。
ネット以前に、ラジオやTVが読書を邪魔してきただろう。ぼくは1996年にJ:COMに加入してしばらくは、すっかり読書を妨げられることがあった。でも問題は何によって、いつから邪魔されるようになったかではなくて、読書とそれを妨げるものがメディアがもたらす文化の形の問題だということをユーリンが示そうとしているということだ。エピローグのあとの「日本語版によせて」で言っている。「道具は違っても、本を読むという行為は同じなのだ」(195ページ)
ところで、この本のカバー、どこかの書店のカバーみたいで、これがなかなかいい。もっともぼくは、ふだん、書店でカバーなどかけてくれるなと断るのだが。