2015年11月21日土曜日

私は如何にして個人番号を受け取るに至ったか? 

荷物を待っていた。待望の荷物だった。ふと、窓の下を見れば、それを運んでくるはずの運送会社のトラックがはす向かいの集合住宅前に停まっていた。そんな状況だったから、ピンポーン♪ と鳴ったとき、何の疑いも抱かず、確かめることもなく、ドアを開けた。

郵便配達人だった。


お名前、間違いないですね? では、印鑑、お願いします。

「マイナンバー」などというダサダサの通称など、使いたくもない。あの忌々しい個人番号カードだったのだ。意に反して、僕はそれを受け取るという屈辱を舐めたのだった。

……参った。その1、2分後、本当に待っていた荷物はやって来た。

荷物はこれだ。

電気を使わない手動のエスプレッソ・マシン。湯を注いでレバーを上げ下ろしするだけでエスプレッソが美味しく仕上がる。僕は使わないけれども、付属の器具を使えばカフェラテやカプチーノも作れる。

Facebookで誰かがいいね! していた広告のページ。思わず、見た瞬間に買ってしまったのだ。

前に書いたとおり、炊飯器やコーヒーメーカー(ドリップ式)の電化製品を捨て、手動に回帰しているのだった。普段は自分でドリップしたコーヒーを飲むのだが、エスプレッソも飲みたい。それで、エスプレッソ・マシンだけは捨てずにいたのだ。が、いい機会だと思い、これに換えた。スペースもスッキリ。できも上々。


うーむ、「縮小経済を生きる」(ものを切り詰め、増やさず、シンプルに生きる)と「物欲」は表裏一体なのだ。ものを持たないということは欲望に叶うものを持つということなのだから……

2015年11月20日金曜日

ものにも命がある

ものにも命がある。

これは『百年の孤独』でメルキアデスがホセ・アルカディオを騙すときに使ったセリフだ。しかし、そこには一片の真実はある。

モノは、時々、例えば買い換えようかなと思ったときとか、飽きたな、と感じたときなど、不機嫌になる。不機嫌になって故障したり壊れたりなくなったりする。

考えようによっては、逆も言える。僕らはモノの命や状態を暗黙のうちに察知し、そろそろ寿命だというころに買い換えを考えたりする。

でも、そう考えるより、モノにも命があると考えた方が何だか生活が潤う。たぶん。

たまに自転車で大学に行く。満員電車を避けるためだったり、サイクリング気分を満喫するためだったり、ともかく、自転車で大学に行く。前に書いたと思うけれども、東大に勤めるようになって、大学からほど遠からぬ場所に引っ越した際のコンセプトは学生のような生活がしたい、だった。大学から遠からぬ場所に住み、ほぼ毎日大学に行く。自転車で通うというのも、そのコンセプトに含まれた行動だ。

自転車自体はけっこう前に買ったものだ。このブログのバックナンバーをたどれば、買ったときの記事が見つかるはずだ。この自転車が、前のアパートの駐輪場が雨ざらしだったものだから、サビができたりしてうるさい。チェーンが軋みを上げたり、ブレーキがキーキー鳴ったりする。

先日、ふと、思い立ったのだ。そういえば自転車、買い換えようかな。すると、とたんに鍵をなくしてしまった。昨日のことだ。大学内での話だ。会議があったので自転車で大学に行き、どこかに鍵を落とした。今日、鍵屋を呼んで壊してもらい、近所の自転車で新たな鍵をつけてもらった。

……自転車本体ではなく、鍵が拗ねてしまったのだ。僕がそろそろ買い換えようなんて考えるものだから。

駐車許可の期限もあることだし、ええ、今年度いっぱいは、少なくとも、使いますとも。そう簡単には捨てません。

写真は昨日恵贈していただいたロベルト・ボラーニョ『はるかな星』斎藤文子訳(白水社、2015)。コレクションの新刊。この次は僕が訳す『第三帝国』だ。下は『ラティーナ』2015年12月号。ここに書評を書いた。キルメン・ウリベ『ムシェ 小さな英雄の物語』金子奈美訳(白水社、2015)の書評を書いた。

『ムシェ』は涙なしでは読めない小説だ。オートフィクションの形式で、ロベール・ムシェというベルギー人の人生を作家(とおぼしき人物)がたどり、あまり知られていない戦時中の事故……事件を明るみに出す。


ウリベは『ビルバオ―ニューヨーク―ビルバオ』(金子奈美訳、白水社、2012)の時に続き、来日する。東京都京都で色々なイベントに出る。

2015年11月8日日曜日

バルトはもうすぐ100歳になる


以前告知したように、昨日、11月7日、明治大学中野キャンパスでシンポジウムSpinning Barthesに出てきた。15人の非専門家(バルトの、もしくはフランス現代文学の)がバルトの著作の1冊を15分間プレゼンテーションするという試み。なかなか面白かったのだ。

上野俊哉さんの『神話作用』についての話(カルチュラル・スタディーズの先駆者としてばかりの読みはもういい加減やめようよ、と)に始まり、発表者のアイウエオ順に、ぼくの『偶景』についての話まで、質疑応答も含めると5時間ばかりの濃密な時間。

会場はこんなすてきな場所だった。



一夜明けて今日、次の翻訳のゲラが来た! フアン・ガブリエル・バスケスの『ものが落ちる音』あるいは『落ちる音』だけになるかも知れない。El ruido de las cosas al caer。頑張って校正して、公約通り年内3冊の翻訳出版となるか!?